じじぃの「人の死にざま_219_長岡」

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『考える人 日本の科学者100人100冊』 新潮社 2009年発行
長岡半太郎 『長岡半太郎 原子力時代の曙』日本図書センター 【執筆者】山本貴光 (一部抜粋しています)
東洋人にも科学が出来ることを身をもって証した。
長岡半太郎といえば原子の土星型模型が有名だが、その関心は、磁気学、地球物理学、分光学をはじめ、科学の専門分化が進んだ現在では考えられない広さに及んでいる。
長岡は、東大在学中、東洋人にはヨーロッパ人と同じように科学研究ができるかと悩み、物理学をやるか、漢学をやるか迷ったという。大学制度が整えられたとはいえ、お雇い外国人教師が教鞭を執り、学ぶなら本場の欧州へ留学という時代のこと。科学においても欧州の後塵を拝す立場として、当然の悩みである。それにしても物理学か漢学かという選択肢は、いかにも時代の転換点に立った明治人らしい。
結局、彼は科学の道を選び取り、ドイツ留学を経て東京帝国大学教授、さらには理化学研究所で物理部長として、本多光太郎、寺田寅彦をはじめちする多くの優れた物理学者を育てた。
晩年に至るまで科学への熱意を失わず、85歳で没した際には、氷河の生成問題に取り組んでいたという。

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
長岡半太郎 (1865-1950) 85歳で死亡。
明治36年、世界にさきがけて原子模型を発表し、昭和12年第1回文化勲章を受章した世界的物理学者長岡半太郎は、昭和24年湯川秀樹が日本で最初のノーベル物理学賞を受賞したときは大いによろこび、翌年アメリカから帰国した湯川が記念講演会をひらいたとき、85歳の長岡は最前列の席に座って、笑顔をつややかにひからせて聴いていた。
その4ヵ月後の12月11日、彼は大往生をとげた。その日も彼は自宅に書斎で、地球物理学の大きな本をひらいて読んでいたが、「少し気分が悪くなった」というので、本はひらいたままで、隣室に床をとらせた。彼は少し吐き、あとは眠ったようであった。しばらくして女中がいってみると、彼は眼鏡をかけたまま死んでいた。脳溢血を起こしたのであった。

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