じじぃの「人の死にざま_209_ピカソ」

パブロ・ピカソ - あのひと検索 SPYSEE
http://spysee.jp/%E3%83%91%E3%83%96%E3%83%AD%E3%83%BB%E3%83%94%E3%82%AB%E3%82%BD/481/
Pablo Picasso 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=5yOJTW_GLbU
Guernica - Vancouver Film School (VFS) 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=4drJL-pRTko
朝日新聞社 100人の20世紀 下 2000年発行
パブロ・ピカソ 【執筆者】木村勲 (一部抜粋しています)
1937年4月26日、スペイン・バスク地方の古都ゲルニカは恒例の月曜市だった。道路や広場は近在の農民が運んだ野菜や果実、乳製品を商う露店でにぎわっていた。
夕方近く、サンタ・マリア教会の金が鳴り響いた。それが空襲警報だと気づいた次の瞬間、建物が、そして人間が吹き飛んだ。
前年、フランコ将軍の反乱でスペイン市民戦争が始まっていた。そのフランコ軍を支援するドイツ軍の爆撃機30数機が、3時間にわたって爆撃と機銃掃射を繰り返した。人口5000人の町で、名前が分かっているだけで126人が殺された。
     ・
55歳のパブロ・ピカソは、そのときパリの自宅で悩んでいた。
スペイン共和国政府は、この5月からパリで開かれる万国博で、スペイン館を飾る作品をピカソに依頼していた。ピカソは快諾し、展示場所の寸法に合わせた縦3.5メートル、横7.8メートルの大キャンパスをアトリエに立てた。
しかし、構想が決まらない。数ヵ月が無為に過ぎていった。
そんなある朝、新聞を観て、愕然(がくぜん)とする。英『タイムズ』紙記者の特電で、ゲルニカの惨状が報じられていたのだ。彼は絵筆をつかんだ。
号泣する女、瀕死の兵士、腹を裂かれた馬が、ゆがみねじれた形態で描かれていった。20年前に放り出したままにしていたキュービスムの手法だった。
1ヵ月後、白黒の淡彩調の作品が完成した。「ゲルニカ」である。
ピカソは南スペインの港町マラガに生まれた。絵画教師の父の転勤で14歳でバルセロナに移る。そのころのことを、後に語っている。
「私は子供らしい絵を描いたことがない。子供のときからラファエロのような絵を描いていた」
その才能に父親の方が嫌気がさし、絵筆を捨ててしまった。
20歳を過ぎてパリに渡った。困窮の中で、バルセロナ時代の気風を受け継いだ作品を描いた。端正な中に沈鬱(ちんうつ)な気分をたたえた「青の時代」である。
20代の終り、キュービスムの旗手となった。
人や風景は解体され、三角形、四角形、円の組み合わせになった。
人物の左顔を描いているとき、画家は実際には右側の目や耳も知っている。彼は解体を施し、さらに、見えているものの上に知っていることをそのまま描いてしまったのだ。伝統美術の否定であり、絵画史上の革命だった。
見方によれば醜悪で、美の破壊のようでもあった。愛人たちはモデルになるのをためらった。
18年7月、新婚の妻オルガは要求する。「私の顔だと分かるように描いてくださいな」
だが彼からすれば、「よく知っている」からこその破壊であり、愛のあかしだったのだ。
26歳の1907年、はだかの5人の女を描いた「アヴィニョンの娘たち」が記念碑的作品となる。
入れ墨のようなしま模様がついたとがった半月形の顔。正面向きの顔に横から見た鼻。そのころ接したアフリカ美術と、1つの画面を複数の視点で描くセザンヌの手法がヒントになった。アヴィニョンとは郷里バルセロナの売春街の名前だった。
ピカソは、そこに至った経緯についてこう語っている。
「無用なリアリズムを捨てたんだ。新しい表現を探しながら描くことさ、ぼくの思考にしか合わない方法でね。外面的な現実にとらわれたり結び付いたりしてはだめだ」
しかし、アトリエで作品を見た友人たちはこう評した。
「醜悪な顔とはあのことだ」(サルモン)
「ガソリンを飲んで火を噴く人間を見るようだ」(ブラック)
「いつの日か、この大きな絵の陰でピカソが首をつっているのが発見されるだろう」(ドラン)
キュービスムは、絵画だけにとどまらず、文化のより広い分野に波及していった。だが、ピカソが友人たちの批評を気にしたのは事実だ。集中攻撃を受けた「アヴィニョンの娘たち」はアトリエに置かれたままとなり、彼はその後、この絵について口にしなくなった。
評価したのは画商のカーンワイラーだけだ。一般愛好家の間でキュービスムは好まれず、あまり売れなかった。
20年ごろには彼は再び正調の古典主義の手法に戻っていた。
アヴィニョンの娘たち」が描かれた同じ年、ウィーンの美術学校の入学試験で、18歳のヒトラーが落第している。「知力貧弱、デッサン不可」という評価だった。
ピカソは「ゲルニカ」でファシズムの暴力に激しい怒りを爆発させた。子供や老人の命までが奪われる不条理。愛を失った母親の悲しみ。破壊された都市、生活、生命。そのすべてを1枚の絵に表現するには、キュービスムしかなかった。
人間性を破壊するファシズムに対する告発は、伝統絵画を破壊知る手法で描かれたのである。

                                    • -

『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
ピカソ (1881-1973) 92歳で死亡。
性の世界でも超人であったパブロ・ピカソは、80歳で最後の愛人ジャクリーヌと結婚した。それ以後は、さすがに巨人の彼も、あまり人に会わない半隠遁的な生活を送るようになった。しかし彼の創作力はなお旺盛であった。
1973年4月7日の午後、彼は、南仏のカンヌに近い、敷地14ヘクタールに及ぶムージャンのノートル・ダム・ド・ヴィの古城の庭に出て、日光浴をしながら庭師と雑談をかわすほど元気であった。その夜もアトリエにはいってひとりで仕事をした。
彼はこの城をふくめて3つの古城の持主であった。
8日の午前11時半、ジャクリーヌ夫人はベッドで苦しんでいるピカソを発見した。10分後にかかりつけの医者が呼ばれたが、ピカソはすでに死亡していた。死因は急性肺気水腫による窒息であった。ベッドのまわりにはクレヨンが散乱していたという。
死後、3つの城には、彼自身の絵、彫刻、陶芸品など3万9000点作品が遺された。
厖大(ぼうだい)な遺品と遺産を相続したジャクリーヌ未亡人は、13年後の1986年10月、ムージャンの城で謎のピストル自殺をとげた。

                                    • -

パブロ・ピカソ Google 検索
http://images.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&rlz=1T4GZAZ_jaJP276JP276&q=%E3%83%91%E3%83%96%E3%83%AD%E3%83%BB%E3%83%94%E3%82%AB%E3%82%BD++%E7%94%BB%E5%83%8F&um=1&ie=UTF-8&ei=HOKpS6n0DcqHkQW2goHABA&sa=X&oi=image_result_group&ct=title&resnum=1&ved=0CBgQsAQwAA