じじぃの「人の死にざま_195_大伴」

夏山の 木末の繁に・・・巻八・一四九四 大伴家持 動画 YouTube
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大伴家持 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
大伴家持奈良時代の政治家、歌人。36歌仙の1人。大納言大伴安麻呂の孫。大納言大伴旅人の子。従三位中納言
【人物・来歴】
万葉集』の編纂に関わる歌人として取り上げられることが多いが、大伴氏は大和朝廷以来の武門の家であり、祖父安麻呂、父旅人と同じく政治家として歴史に名を残す。天平の政争を生き延び、延暦年間に中納言まで昇る。
天平10年(738年)に内舎人と見え、天平12年(740年)九州の大宰府にて藤原広嗣が起こした乱の平定を祈願する聖武天皇の伊勢行幸に従駕。天平17年(745年)に従五位下に叙せられる。
天平18年(746年)3月に宮内少輔、7月に越中国国守に任ぜられ、天平勝宝3年(751年)まで赴任。この間に220余首の歌を詠んだ。
少納言となって帰京後、天平勝宝6年(754年)兵部少輔となり、翌年難波で防人の検校に関わる。この時の防人との出会いが、万葉集の防人歌収集につながっている。
歌人として】
長歌・短歌など合計473首が『万葉集』に収められており、『万葉集』全体の1割を超えている。このことから家持が『万葉集』の編纂に拘わったと考えられている。万葉集』卷十七〜二十は、私家集の観もある。『万葉集』の最後は、天平宝字3年(759年)正月の「新しき年の始の初春の 今日降る雪のいや重け吉事(よごと)」(卷二十-4516)である。時に、従五位上因幡大伴家持は42歳。正五位下になるのは、11年後のことである。『百人一首』の歌(かささぎの渡せる橋におく霜の白きを見れば夜ぞ更けにける)は、『万葉集』には入集していない。

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万葉歌人の愛そして悲劇―憶良と家持』 中西進/著 日本放送出版協会
家持、青春の哀歓 (一部抜粋しています)
10代の終りから20代にかけて作った歌の一つで、「ほととぎすの歌」というものがあります。
 「夏山の木末(こぬれ)の繁(しげ)に霍公鳥(ほととぎす)鳴き響(とよむ)なる声の遥(はる)けさ」
これも『万葉集』を代表する秀歌の一つだと思います。夏の山ですから木が繁茂しています。そして「繁茂した梢にはほととぎすが鳴きとよんでいる」というのですね。盛んに鳴き声を響かせていますが、その声が遥かである。やかましく鳴きたてるのではない。やはり聞こえてくるかこないかのように、聞く心を持っている人間の耳にだけ響くような、そういう声を出して、ほととぎすが鳴くのです。
まわりの風景は夏の山の木立の繁茂です。その中で鳥が鳴くのですが、その声が遥かであることのよって、まわりのいっせいに燃えるような生命感が鎮静化してきます。その鎮静化した中に、はるかな微かな声をたてて鳥が鳴いているのです。
よく知られるように、古代人は人間の死後、魂が鳥となると信じていました。なかんずく、ほととぎすには死の世界と現世とを結ぶものだという信仰がありまして、これは平安朝時代に顕著になるのですが、奈良時代にもそういう考えがあったと思われます。それゆえに、ほととぎすは亡くなった人とか、遠い友人とか、そういう遠くの人をしのばせる鳥と感じられています。そういう中国の故事によって文化人たちにもてはやされた鳥がほととぎすで、家持は、ほととぎすがたいへん好きでした。
そこで、こういう歌を歌うのですが、さてそのほととぎすを、まるで微かな冥界から響いてくる声、それを聞きとめるような形で歌っています。
家持における死と歌心 (一部抜粋しています)
月が変わって秋風が吹いた。それを悲しんで作った歌があります。
 「うつせみの世は常なしと知るものを秋風寒(さむ)み偲(しの)ひつるかも」
現実経験のこの世は、無常であると知っているというのです。
万葉集』に「常なし」ということばはたくさん出てきますが、これは仏教の無常という漢語を翻訳してできた日本語です。ですからこれは、まったく仏教的な情感だと考えていいことばです。つまり家持は仏教的なこの世の無常、これを知識として知っているのですね。しかし、知っているけれども、秋風が寒いので、妻のことをしのんでしまうというのです。
ここには心と「教え」との葛藤があります。戦いがある。つまり、「教え」では無常だ、仕方がない、亡くなってもいいと教える。それは分かっているのだが、それなのにやはり悲しんでしまう。悲しんで、亡き人を思いだしてしまう。そういうのです。こういう教義、抽象化された「教え」と実感としての自分の生命観、その争いは終始『万葉集』の和歌の中に流れ続けています。教えでは分かる。教養人としての家持はそれも知っているのですが、しかし生身の生活者としての家持は承服しがたい。納得して諦めることができないという葛藤、それを歌っているのです。
ところで、家持だけでなく、父の旅人もそうでした。旅人も妻を亡くしているのです。そして、悲歌をたくさん作っています。ですから、この歌の中にも、旅人の面影がちらついているのです。父の面影を脱することのできなかったのが、家持という人です。それほどに旅人はえらかったのでしょうし、また家持が旅人からひじょうに大きな影響を受けたことが分かります。

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
大伴家持(おおとものやかもち) (717-785) 68歳で死亡。
大伴家持延暦4年、持節征東将軍として、仙台に近い任地の多賀城でこの世を去った。
彼の死後1ヵ月ほどして、都の長岡城で藤原の一門藤原種継の暗殺事件が起り、その首謀者として大伴一族の継人らが捕えられ、陰謀の嫌疑はすでにこの世にない家持にまで及び、彼は官位を奪われ、私財は没収された。
その没収された遺品の中に、彼が選んだ先人の歌および彼自身の歌を集めた膨大(ぼうだい)な歌集があった。これがすなわち『万葉集』であった。

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【次代への名言】8月28日・大伴家持 2009.8.28 MSN産経ニュース
「うらうらに照れる春日にひばりあがり 情(こころ)悲しもひとりしおもへば」大伴家持(おおとものやかもち))
日本人の心の原点である最古の歌集・万葉集に、最多の480首がおさめられた歌人万葉集の最終的な編纂(へんさん)にかかわったともいう。≪春の苑紅(そのくれない)にほふ桃の花 下照る道に出で立つ嬬(をとめ)≫は艶麗(えんれい)、≪春の野に霞たなびきうら悲しこの暮影(ゆふかげ)に鶯(うぐいす)なくも≫は繊細。そんな大伴家持の別の「顔」を伝えるのが、一部が歌曲『海ゆ(行)かば』の詞となった長歌の次の一節である。
≪大王(おおきみ)の御門(みかど)の守護(まもり)、吾(われ)をおきて人はあらじ≫
 大伴氏は代々、天皇の近辺を警護する豪族の頭領。家持はこの誇り高き「もののふ」の長となる人物だった。だが、武の名門も、能吏・藤原氏の台頭で没落をはじめ、家持はそのただなかで苦しむ。彼の歌に憂愁がただようのは豊かな感受性と、その時代ゆえ、とされる。
 万葉集をしめくくるのは759年の正月(旧暦)を寿(ことほ)ぐ彼の歌だが、それから26年後のきょう、死去するまで、歌人・家持の活動は伝わっていない。万葉学の第一人者、中西進さんによれば、「絶唱三首」の一つである冒頭の歌には天皇親政の夢が、官僚政治の権謀によって破れた愁いが秘められている。それが、長い晩年の沈黙の、一つの理由であろう。
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/090828/acd0908280311000-n1.htm
大伴家持 Google 検索
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