じじぃの「人の死にざま_449_菅原・道」

菅原道真 - あのひと検索 SPYSEE
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【神さまの通り道】太宰府天満宮 動画 YouTube
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東風吹かば (70年代フォーク) 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=lCZWuXByDxE
菅原道真 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
菅原道真は日本の平安時代の貴族、学者、漢詩人、政治家である。
宇多天皇に重用され昇進し、醍醐朝では右大臣にまで昇った。しかし、左大臣藤原時平に讒訴され、大宰府へ権帥として左遷され現地で没した。死後天変地異が多発したことから、朝廷に祟りをなしたとされ、天満天神として信仰の対象となる。現在は学問の神として親しまれる。
【家系・生涯】
父は菅原是善、母は伴氏。菅原氏は、道真の曾祖父菅原古人のとき土師(はじ)氏より氏を改めたもの。祖父菅原清公と父はともに大学頭・文章博士に任ぜられ侍読も務めた学者の家系であり、当時は中流の貴族であった。母方の伴氏は、大伴旅人大伴家持ら高名な歌人を輩出している。
醍醐天皇の治世でも道真は昇進を続けるが、道真の主張する中央集権的な財政に、朝廷への権力の集中を嫌う藤原氏などの有力貴族の反発が表面化するようになった。また、現在の家格に応じたそれなりの生活の維持を望む中下級貴族の中にも道真の進める政治改革に不安を感じて、この動きに同調するものがいた。昌泰2年(899年)、右大臣に昇進し右大将を兼任。翌年、三善清行は道真に止足を知り引退して生を楽しむよう諭すが、道真はこれを容れなかった。延喜元年(901年)、従二位に叙せられたが、斉世親王皇位に就け醍醐天皇から簒奪を謀ったと誣告され、罪を得て大宰権帥(だざいごんのそち)に左遷される。宇多上皇はこれを聞き醍醐天皇に面会してとりなそうとしたが、醍醐天皇は面会しなかった。長男高視を初め、子供4人が流刑に処された(昌泰の変)。この事件の背景については、時平による全くの讒言とする説から宇多上皇醍醐天皇の対立が実際に存在していて道真がそれに巻き込まれたとする説まで諸説ある。
道真は延喜3年(903年)、大宰府薨去し同地に葬られた(現在の太宰府天満宮)。道真が京の都を去る時に詠んだ「東風(こち)吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」は有名。その梅が、京の都から一晩にして道真の住む屋敷の庭へ飛んできたという「飛梅伝説」も有名である。

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『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
菅原道真(すがわらのみちざね) (845-903) 58歳で死亡。 (一部抜粋しています)
藤原氏以外の出身でありながら、いちどは右大臣として、左大臣藤原時平とともに最高の顯栄の座にあった道真は、延喜元年、突如九州大宰府に権師(ごんのそち)として流された。
その官舎は床も朽ち、屋根は漏(も)るといった惨めなもので、もともと丈夫でなかった彼はたちまち、胃病、脚気、皮膚病などを患いはじめ、2年目の延喜3年2月20日に死んだ。
この悲劇前後に彼が詠じた「こち吹かば」の歌や、「去年の今夜清涼に侍す」などの死はのちに人口が膾炙(かいしゃ)したが、それより、その死後、藤原時平ほか彼を追放する陰謀に関係した人々に、相ついで死や不幸が訪れたことから、その怨念(おんねん)を怖れて天満宮が作られ、彼は神様にまで祭りあげられた。

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