じじぃの「人の死にざま_189_尾崎・放哉」

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小豆島 尾崎放哉記念館
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尾崎放哉選句集
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『知っ得 俳句の謎 近代から現代まで』 國文學編集部/編集 1999年発行
尾崎放哉 【執筆者】瓜生鉄二 (一部抜粋しています)
「入れものが無い両手で受ける」
「層雲」の大正15年2月号。小豆島時代に作られた句である。
この句には、主語もなければ、目的語もない。季語もない。ここには「入れものが無い」という事実と「両手で受ける」という行為がぶっきらぼうに提示されているばかりで、何を手掛かりにすればよいのか、一瞬戸惑ってしまう。しかし、この一句を通じて丸ごとの放哉が見えてくる。
素っ気なく「片手で受ける」のではなくて、懇ろに両手で受けるのは、島の子供達とも考えられるし、放哉自身だとも考えられる。あるいは最初に発表された時点から逆算して、秋に島を訪れる「秋遍路」ではないかとも考えられる。しかし島の子供達だとすると、「入れものが無い」という言葉が、分別臭く感じられる。「秋遍路」だとすると、仏の前で合掌したお遍路さんが、その両の掌を広げて、島の人からお布施を受けている、その姿を尊いものとみた放哉が一句に仕立てたものと解釈できる。しかし、そうした間接的な表現であれば、「受けてゐる」とした方がより正確ではないかと思われる。放哉自身だとすれば、独居自炊の南郷奄での生活において、島の人達の喜捨にすがって生きていた放哉の「感謝」「報恩」の念のこもった句だということになる。そこでようやく「受ける」の主語も動かなくなる。
また、目的語の「何を」受けるのかについては、お米、豆類、お菓子(かきもち・あられ・・・・)、小振りの果物などが思い浮かぶ。「両手で受ける」にふさわしいものがおのずがら限定されてくるだろう。片や「入れものが無い」についても、たまたまその場に無かったから・・・・という理由づけも出来よう。しかし、「入庵食記」の表紙に「世を捨人(すてびと)は浮世の妄愚を払い捨てて椹汰瓶(じんだがめ)一つ持つまじく」(徒然草)と墨書した放哉である。必要最低限の「入れもの」もなくて「素手」で受け取るところに、放哉の面目が躍如としている。
「墓のうらに廻る」
「層雲」の大正15年4月号。小豆島時代に作られた句である。
放哉が8ヵ月にわたって庵住生活を送った西光寺の奥の院「南郷奄」の跡地には、往時に近いかたちで建物が復元され、平成6年4月、土庄町立「尾崎放哉記念館」として開館した。記念館の前は丘陵地の斜面を覆い尽くすかのように一面に墓地が広がっている。この光景は放哉が奄住していた当時とは随分違っている。墓所にまつわる"暗さ"とか"寂しさ"とかいったイメージは払拭され、墓域もすっかり整理されている。放哉の庵住当時、島にはまだ土葬の風習が残っていたようである。南郷奄一帯も「墓地」であり、「墓原」であったために、付近には墓石を彫る石屋さんの他には人家も稀で、春と秋のお遍路の季節、お盆やお彼岸の季節、あるいはお大師の集まりの日などを除いて、普段でも人通り少ない寂しい所だったと思われる。
この句以外に「墓」「墓地」「墓原」に取材した句を「層雲」から拾ってみると、「漬物石になりすまし墓のかけである」、「墓地からもどって来ても一人」、「墓原花無きこのごろ」などがある。
結核が進行し、病臥を余儀無くされる前には、この墓原も放哉が一人歩きするのに格好の場所であった。墓の表に刻まれている死者の名前、恐らくそれは生前会ったことも無く、縁もゆかりも無い人であっただろう。流浪の果てに漸く見出した安住の地であれば、なおさらその人の来歴や没年まで知りたい思いに駆られるのかもしれない。島には井上一二、杉本玄々子などの庇護者はいても、独居無言の生活が殆んどだった。墓の裏に廻る微妙な心理も、対話者の少ない放哉にとって、人を恋う心に通じていたのではなかろうか。自分の体が徐々に衰弱してゆくのを自覚し、命終の近いことを知覚していたからこそ、放哉は、生よりも死後の世界により親しみを感じていたのではなかろうか・・・・。

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『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
尾崎放哉(おざきほうさい) (1885-1926) 41歳で死亡。 (一部抜粋しています)
一高で漱石の講義を聴き、東大法学部を出て、東洋生命保険会社(いまの朝日生命)に就職した尾崎秀雄は、約10年後退社して、朝鮮火災海上保険会社の支配人となったが、1年で馘首(かくしゅ)されて、妻とともに満州を放浪した。大正12年、38歳のときである。原因は、一応は、酒を飲むと人が変る酒癖の悪さであった。
しかし、本当の原因は、人間界に暮らせない、「底のぬけた柄杓(ひしゃく)」のような、彼の異様な性格にあった。彼は帰国し、妻と別れ、京都や須磨や小浜の寺男となってさまよい出した。それらの寺を短時日に追いだされたのち、彼は、大正14年8月、小豆島の西光寺奥の院の堂守となった。そして7ヵ月半後の大正15年4月7日にひっそりと死んだ。
一流の大学を出ながら、俗界と縁を断ち、ただ短詩の極限ともいうべき句を作り捨てるのみの孤独漂泊の人生にはいったその生き方は、後までふしぎに、ある人々に憧憬のまととなった。
しかし、実際の放哉の生活は、当然苛烈なものであった。彼は孤独を望んだにちがいない。が、人間は孤独に生きるにも、最低限の収入が必要であった。それがなかった。彼は友人や島の人々に金や食物を乞わねばならなかった。
「入れものが無い両手で受ける」
彼は孤独を愛したにちがいない。しかし彼は、別れた妻を恋した。
「咳をしてもひとり」
放哉はほとんどもらいものの焼米と焼豆だけで暮らした。満州で病んだ肋膜炎はやがて肺結核となり、さらに咽頭結核に進んだ。怖ろしい栄養不足はその症状を昂進した。
12月25日、『食記』と題する手記に彼は書く。
「銭湯ニ行ク。全ク四ヶ月目ナリ。(中略)入浴シテ久シ振リニ姿見ニ吾ガ裸体ヲウツシテ見ル。イヤ痩セタリナ、ヤセタリナ、マルデ骨皮ナリ。(中略)十貫目モアラザルベシ」
彼の身長は160センチであったが、それが37.5キロないというのである。
翌年の3月には、体温計を腕と肋骨の間にはさんでも、隙間があいて落ちるようになった。口にくわえてみると、熱は38度を越していることが多かった。
3月15日に彼は書いた。
「スキ焼デ一杯ヤッテ死ニタシ、タノムタノム、サテ、誰ニタノム」
そして彼は、4月7日の午後4時ごろに息をひきとった。
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この年で大正は終わる。
彼は道を求めるというより死を求め、死を求めるより、人間世界から逃避するために、たった一人の生活に入った。しかし、その孤独の極限ともいうべき死に方は、意外に多くの人々のあこがれるところとなり、彼の死んだ小豆島の西光寺には彼を記念する立札と句碑が建てられた。
しかし、彼よりも哀切なのは、彼に捨てられ、紡績工場の女工の寮母となり、放哉の死後3年10ヵ月で、チフスで死んでいった美しい妻の薫であったろう。

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