じじぃの「坂の上の雲・功罪!プライム」

坂の上の雲 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
坂の上の雲』は、司馬遼太郎による長篇歴史小説。司馬の代表的作品の一つとされる。1968年(昭和43年)から1972年(昭和47年)にかけて『産経新聞』に連載された。単行版全6巻(文藝春秋、1969〜1972年初版)。
【内容】
秋山好古秋山真之の兄弟と、正岡子規の3人を主人公に、松山出身の彼らが明治という近代日本の勃興期を、いかに生きたかを描き、青春群像小説の面も強調されている。
前半は、秋山好古師範学校を経て陸軍士官学校に学びフランス留学を経て日本騎兵を一から作り上げてゆく様子を基点にしている。秋山真之は、松山中学から実兄の好古を頼り上京。帝国大学進学を目指し、共立学校を経て大学予備門(のちの一高)に在籍する。真之に遅れ上京した正岡子規との交友関係は、読者には楽しく、明治初期の青年の志や情熱について理解を深める材料ともなる。夏目漱石が彼達の友人に属し、子規との交友関係を綴る件は、明治特有の時代風潮を語っている。子規は、帝国大学文学部へ進学。真之は、海軍兵学校へと異なる道を歩む。
この時点での重要なモチーフの一つは、羸弱(るいじゃく)な基盤しか持たない近代国家としての日本を支えるために、青年たちが自己と国家を同一視し、自ら国家の一分野を担う気概を持って各々の学問や専門的事象に取り組む明治期特有の人間像である。好古における騎兵、真之における海軍戦術の研究、子規における短詩型文学と近代日本語による散文の改革運動等が、其々が近代日本の勃興期の状況下で、代表的な事例として丁寧に描かれている。
後半は、とりわけ子規の没後は、秋山兄弟が深く関わった日露戦争の描写が中心となり、あたかも<小説日露戦争>の雰囲気が強くなる。作者が日露戦争そのものを巨視的且つ全体的に捉えることを意図し、後半部分では本来の主人公である秋山兄弟の他に児玉源太郎東郷平八郎乃木希典などの将官や各戦闘で中心的な役割を果たした師団と日本海海戦についての記述に紙幅が割かれている。読者に理解しやすいよう軍事的な記述も時系列的に述べられている。日露戦争終結と共に、本作も兄弟のその後にふれつつ締められる。
1979年から翌年にかけ、「中央公論」で連載した『ひとびとの跫音』(中公文庫全2巻)では子規没後の正岡家が描かれ、後日談的位置づけもされている。また番外編的作品に、乃木が夫妻で自決するまでを描いた『殉死』(文春文庫)がある。エッセイ集成『司馬遼太郎が考えたこと』(全15巻、新潮文庫、特に本作の連載時期の巻)に、作品背景について複数のエッセイ・解説がある。
1986年に出された長編歴史エッセイ『ロシアについて 北方の原形』(文春文庫)では、ロシア建国と日露交渉の経緯などが書かれ「『坂の上の雲』の余談のつもりで書いている」と述べた。
1989年に放映されたNHKスペシャル『太郎の国の物語 「明治」という国家』(日本放送出版協会、新版がNHKブックス全2巻)で、司馬は総括的な感慨を述べている。
2007年(平成19年)春に、松山市に「坂の上の雲ミュージアム」が開館した。
【評価】
司馬は本作を執筆するにあたり、「フィクションを禁じて書くことにした」と晩年に述べている(朝日文庫版『司馬遼太郎全講演5』、「坂の上の雲 秘話」)。フィクションを禁じたので、描いたことはすべて事実であり、事実であると確認できないことは描かなかったと作者は主張しているが、実際は多くの研究者、作家により、作中の誤りや創作部分が指摘されている。一例として28サンチ榴弾砲を旅順に移送する件について、史実では第三軍司令部の大本営あて返電には「…ソノ到着ヲ待チ能ワザルモ、今後ノタメニ送ラレタシ…」とあるにも関わらず、作中では「送るに及ばず」と拒否したことになっている。
本作品は司馬の著作の中でも特に議論を呼んだことで有名で、明治という時代そのものに対する高評価、日露戦争を一種の自衛戦争であると捉えた司馬の史観、旅順攻撃を担当した乃木希典およびその配下の参謀たちが能力的に劣っていたために多大な犠牲を強いることになったとする筆者の見解については、未だに賛否両論がある。また藤岡信勝はこの作品をきっかけとして自由主義史観を標榜するようになった。歴史書・伝記の「読書アンケート」で一貫してトップであった。

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『プライムニュース』「坂の上の雲」ブーム 司馬史観の功罪とは? 2010年2月12日 BSフジ
【キャスター】島田彩夏、反町理、小林泰一郎解説委員 【ゲスト】一橋大学名誉教授 中村政則、作家・神戸女学院大学客員教授 関川夏央
前編:http://www.bsfuji.tv/primenews/movie/index.html?d100212_0
後編:http://www.bsfuji.tv/primenews/movie/index.html?d100212_1
どうでもいい、じじぃの日記。
司馬遼太郎が書いた『坂の上の雲』は累計で1800万部、売れたのだそうである。
今、NHKなどで『坂の上の雲』がドラマ化され、ブームになっている。
2/12、BSフジ 「プライムニュース 『坂の上の雲』 ブーム 司馬史観の功罪とは?」を興味深く観た。
冒頭でキャスター島田さんの「今日は『坂の上の雲』の作者である司馬遼太郎の命日です」があった。1996年に亡くなってから、もう14年が経つ。
この番組は『坂の上の雲』を通して司馬史観を検証する番組である。
印象に残った部分のみを書いてみた。
司馬遼太郎昭和18年に学徒出陣により満州にある戦車隊に配属されている。司馬さんが「軍の上官に本土決戦となった場合に、日本人の避難民が逃げてきて道を埋めると思うが、その場合戦車隊はどうしたらいいですか?」と聞いたときに、「ひき殺せ」とその上官が言った。司馬さんは自分の国の国民を殺せという言葉に日本もここまでおかしくなったのか思ったのだそうだ。
日露戦争の勝敗を決めたのは旅順攻略戦とロシアバルチック艦隊との日本海海戦である。
司馬遼太郎の旅順攻略戦に対する乃木希典への評価は「無能」であった。
果たして乃木希典は「無能」な人物だったのだろうか。
ロシアとの旅順をめぐる戦いは3回あった。1回目は約5000人の死者を出した。ゲストの中村氏、関川氏によれば、戦術として何も情報の無い場所であれだけ犠牲者が出たのはやむをえなかった。「無能」呼ばりするのは気の毒だというものだった。むしろ参謀長であった伊地知幸介が「無能」だったとか。
しかし、この乃木希典に対する評価は厳しい。明治天皇が亡くなったとき、乃木希典夫妻は自決した。乃木希典はなぜ奥さんを道連れにしなければならなかったのか。
番組の最後に2人の提言
中村氏:「主観的外圧と客観的外圧」。司馬遼太郎が日本が日露戦争に進んだのはロシアが日本を占領するという日本人の思いこみがあったとする。しかし歴史を調べるとロシアの書物には日本を占領するという記述は無い。
関川氏:「書かれた時代を読む」。司馬遼太郎が『坂の上の雲』を書いた時代、日本は戦争に対してタブーの時代だった。いろいろ司馬作品に対して批判があるが、司馬遼太郎が何も無い時代に資料をかき集め、これだけのことを見せてくれた。司馬遼太郎の功績は大きい。