坂口安吾 - あのひと検索 SPYSEE
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100分 de 名著 坂口安吾“堕落論” 『一人曠(こう)野を行け』 2016年7月11日 NHK Eテレ
【司会】伊集院光、礒野佑子 【語り】小口貴子 【ゲスト講師】大久保喬樹(東京女子大学教授)
●第2回 “堕落論” 一人曠(こう)野を行け
道徳意識の革命的転換を説いて戦後日本社会に大きなインパクトを与えた。作家・坂口安吾の時代の寵児とした『堕落論』の真意を読み解く。
堕落は決して生やさしい道ではない。それは徹底して孤独で血みどろの生き方なのだ。堕落の深い意味を読み解き、真の人間再生の道とはどんなものかを考える。
https://hh.pid.nhk.or.jp/pidh07/ProgramIntro/Show.do?pkey=001-20160711-31-08113
坂口安吾 ウィキペディア(Wikipedia) より
坂口安吾は、日本の小説家、エッセイスト。本名は炳五(へいご)。旧私立豊山中学校卒業後、代用教員を経て東洋大学文学部印度哲学倫理科卒業。純文学のみならず、歴史小説、推理小説、文芸から時代風俗まで広範に材を採るエッセイまで、多彩な領域にわたって活動した。終戦直後に発表した『堕落論』などにより時代の寵児となり、無頼派と呼ばれる作家の一人、その後の多くの作家にも影響を与えた。
【新進作家へ】
1930年(昭和5年)東洋大学を卒業。本格的に20世紀フランス文学を学び始め、アテネ・フランセの友人葛巻義敏、江口清らと同人誌『言葉』を創刊。創刊号にマリイ・シェイケビッチ「プルウストに就てのクロッキ」の翻訳を掲載。第2号に処女小説「木枯の酒倉から」を書き、小説家としての資質に自信を持つようになる。『言葉』は2号まで刊行後、5月に『青い馬』と改題して岩波書店から新創刊、創刊号に小説「ふるさとに寄する讃歌」、評論「ピエロ伝道者」、翻訳「ステファヌ・マラルメ」(ヴァレリー)、「エリック・サティ」(コクトー)を発表。続いて2号に散文ファルスとも言うべき「風博士」、3号に「黒谷村」を発表する。この「風博士」と「黒谷村」を牧野信一が激賞、島崎藤村と宇野浩二にも認められ、一躍新進作家として注目され、次いで「海の霧」「霓博士の頽廃」を発表。
1932年3月、『青い馬』は5号で廃刊、この最終号には「FARCEに就いて」を掲載。牧野の発刊した季刊誌『分科』に、長編「竹薮の家」を連載、この同人の小林秀雄らと知り合う。また3月から京都に1か月ほど滞在し、大岡昇平を通じて加藤英倫、安原喜弘らと交遊して帰京。年末から翌年正月にかけて、青山二郎行きつけの酒場ウヰンザアで、加藤の紹介で矢田津世子と知り合い交際が始まる。1933年に田村泰次郎、井上友一郎、矢田らと同人誌『桜』に参加。5、7月に「麓」を連載するが、『桜』は第3号以降の刊行が難しくなり、10月に矢田とともに脱退。
1936年に矢田と絶交し、長篇「吹雪物語」の執筆を始める。翌年京都に下宿し、「吹雪物語」に専念しながら、碁会所を開くなど囲碁三昧の生活を送る。1938年に、安吾作品では最も長い700枚の渾身作「吹雪物語」を脱稿して上京するが、失敗作と評され失意に陥る。同年『文体』12月号に「閑山」、翌年2月に「紫大納言」を発表し、ファルスの文学で復活。私生活では取手、小田原、蒲田を転々とした。
戦時中は作品発表の場が大幅に減り、歴史書を読み漁り、「黒田如水」「二流の人」などを執筆した他、エッセイ「日本文化私観」「文学のふるさと」「青春論」、自伝小説「二十一」などを執筆、創作集「真珠」は反戦厭戦的な非国民小説として発行を禁止された。
【年譜】
・1943年(昭和18年) - エッセイ集『日本文化私観』を刊行。
・1944年(昭和19年) - 徴用逃れを目的に日本映画社の嘱託となる。この頃、歴史書を愛読、1月に「黒田如水」を『現代文学』に、2月に「鉄砲」を『文藝』に発表。
・1946年(昭和21年) - エッセイ「堕落論」、小説「白痴」を雑誌『新潮』に発表。エッセイは他に、「デカダン文学論」、「堕落論・続編」などをそれぞれ文芸誌に発表した。また、文藝春秋社発行の雑誌『座談』で阿部定と対談している。
・1947年(昭和22年) - 前年の反響が大きかったため、執筆のペースは大幅に増えた。「風と光と二十の私と」を『文芸』に、「戯作者文学論」を『近代文学』にそれぞれ発表。また、名作として名高い「桜の森の満開の下」を『肉体』に発表。『堕落論』を銀座出版社より初めて刊行。梶三千代と知り合い、結婚。写真家林忠彦と酒場ルパンで知り合う。「カストリを飲む会」を通じ交友し、自宅の紙屑だらけの仕事場で撮られた写真が後に有名になった。
9月以降、『日本小説』に、推理小説「不連続殺人事件」を発表。
10月、「青鬼の褌を洗う女」を週刊朝日別冊『愛と美』に発表。12月には表題作を含めた短編集を山根書店より出した。
・1948年(昭和23年) - 『風と光と二十の私と』、『不良少年とキリスト』、『不連続殺人事件』を刊行。『坂口安吾選集』を銀座出版社から刊行。『不連続殺人事件』は、探偵作家クラブ賞を受けた。
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『アイ・ラブ安吾』 荻野アンナ/著 朝日新聞社 1992年発行
・コット先生の眼 (一部抜粋しています)
痛快無比、それはそれとしてたいへん結構であるが、わたしの「ギャッ」の核心はもっと別のところにあった。『日本文化私観』は安吾個人のエピソードから論をおこしていつの間にか一般的真理に移行する、というパターンに基づいている。種々雑多なエピソードが見本市のように並ぶなかに、ひとつ、他を圧してわたしの目に飛びこみ、張りついてきたのもがある。
アテネ・フランセの学生だった安吾がフランス人教師と会食のおり、ソソウがあって、前に座ったコットににらまれてしまった。
「ヴォルテール流のニヒリストで、無神論者」というからには、先生はヒネクレた冗談が3度のメシより好きで、気のきいた皮肉の用意なしに口を開くことはない、といったタイプだったのだろう。
その筋金入りのひねくれインテリが場違いにマジで感傷的なテーブルスピーチを始めたから、安吾はそんなアホな、と「思わず、笑いだしてしまった」。と、先生に「殺しても尚あきたらぬ血に飢えた憎悪を凝らして」にらみつけられてしまったのである。
フランスに少なくとも数ヵ月以上いたことがある人は、コット先生がごくありふれた典型的なフランス人であり、特別にうらみがましい人では無い事を身にしみて知っているはずだ。現地でいっぺん「血に飢えた憎悪」の眼でにらまれてみたい、というのなら話は簡単だ。そのためにわざわざフランス人と友達づき合いをする必要はない。
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確かにパリは美しい。パンテオンは、ノートルダムは、エッフェル塔は、絵葉書そのままにそびえ、セーヌにかかる橋のひとつひとつ、高校やら市役所やら病院まで、こちらがゲンナリするほど威風堂々として美しい。その美しさを成立させているものが、案外憎悪の炎であるかもしれないことを悟ったのだ。
キリスト教は愛の宗教である。西洋人は声高に愛を叫ぶ。なぜなら、それは、彼らの愛の裏側に、少なくとも同量の憎悪がぎっしりと詰まっているからに相違ない。愛の希求の激しさが、すでに憎悪の埋蔵量のただならぬことを予感させる。憎悪に裏打ちされているからこそ、愛が存在しうるのかもしれないのだ。逆もまた真なり。愛という文字を見たら憎悪と思え。自由、平等、博愛というスローガンは、人間が不自由、不平等、不博愛に基づいていることを熟知した国民だからこそ可能だった。愛とせめぎあう憎悪が、自然と激しく対立する人工が、山をうがち、岩をけずり、石を積み、カテドラルを築く。ワタシもアナタも、犬も虫も区別はない、皆ともに仏道を、のお寺さんとはエネルギーの出所が違う。
あれよあれよという間にカフェでの体験から一般真理風思いこみへと発展したのは、それなりの下地が出き上がっていたからで、思えばあちらでは良い意味でも悪い意味でも、日本ではお目にかかれないタイプの人間にずいぶんと出くわしている。
意志的に憎悪に身をまかせる人と、意志的に愛のカタマリと化す人と。その両方ともスサマジく、わたしはその両極のあいだを跳ねまわる1個の考えるゴムマリであった。『日本文化私観』を一読すれば、ゴムマリのささやかな悟りは、40年以上も前に安吾大人によって一般真理化されていたではないか。
≪このような眼は日本人に無いのである。僕は一度もこのような眼を日本人に見たことはなかった。その後も特に意識して注意したが、一度も出会ったことがない。つまり、このような憎悪が、日本人には無いのである。『三国志』に於ける憎悪、『チャタレイ夫人の恋人』に於ける憎悪、血に飢え、八ツ裂きにしても尚あき足りぬという憎しみは日本人には殆んどない。昨日の敵は今日の友という甘さが、むしろ日本人に共有の感情だ。≫
安吾はこのひと握りの真理を手に入れるために、コット先生ににらまれるという手間をかけたにすぎない。安吾を人生の達人とするなら、自分がズブのシロウトであることをつくづくと思い知らされた。わたしはすなおに降参して、ぞっこんイカれてしまった。
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『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
坂口安吾 (1906-1955) 49歳で死亡。 (一部抜粋しています)
先天的な八方破れの性格と、それとうらはらな極度なはにかみのアンバランスから、酒乱あるいはアドルム中毒の狂態をくり返し、ついに税金を払わないと頑張って、坂口は伊藤の自宅を税務署に差し押さえられ、昭和27年早々に群馬県桐生に移った。
その翌年の8月、妻の三千代が男の子を生んだときも、安吾は信州に取材旅行にいっていて、浅間温泉の旅館に呼んだ芸者を全身に痣(あざ)が出来るくらい殴りつけて、愛児誕生の知らせを受けたのは、土地の警察の留置場の中であった。
子供が生まれてから、坂口はやや変わった。家を建てようかとか、少し貯金をしようとかいい出し、これは結局口約束に終ったが、旅先からは必ず電話をかけて、子供の声を聞かずにはいられないようになった。
彼は以前から高血圧による肩凝りや足のだるさをしばしば訴え、よくアンマを呼んだが、体重80キロに近く、肩の肉も厚くて、肩をもむにも大変な力を要し、坂口はすぐにカンシャクを起こしてアンマをどなりつけるので、そのうち桐生じゅうのアンマが、呼んでも容易に来なくなってしまったほどであったが、それだけに本人は体力に自信を持ち、三千代もその頑健さを信じていた。
昭和30年2月、彼は「中央公論」の「安吾新日本風土記」執筆のため、高知に取材旅行に出かけ、2月15日、桐生の家に帰ってきた。
三千代は記す。
「いま考えれば貴方は死ぬためにもどられたようなものですね。15日の晩おそくお勝手口の方からもどられて、『オーイ』と云ったのであわてて私はとび出して行きました。そしておどろいたのは、顔がちいさく茶いろく見えたことでした。つかれているなと思いました。鞄をあわてて受取ると、『坊やは』とお聞きになった。『ええ起きておりますよ、待たせておいたのよ』と答えると、よほど嬉しかったらしく、何遍も坊やを抱きあげながら『よかったよかった』とくりかえしおっしゃった」
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「みちよみちよ、と2度ほど呼ばれて、声が少し変な感じだなと思いながら行ってみると、『舌がもつれる』といって、手まねで窓を開けることとストーブに石炭を入れることを云われ、『いったいどうなさったの』といいながら、(中略)抱きかかえるようにしてその場に横にさせると、私の顔を観て何か云いたいように見えたのでしたが、言葉にはならなくて両腕をちぢめ、全身が痙攣しておりました」
安吾は脳溢血を起したのであった。
「それからお医者様が見えたときにはとうに意識は失っておられました。舌がもつれるとおっしゃった以外は私が何をいっても御返事がないし、いつから意識を失われたのかもわからない。お医者が2人で必死になってあらゆることをして下すったようですが、刻々に心臓は弱まり意識は再び戻りませんでした。
舌がもつれるとおっしゃってから1時間半ぐらいしかたっておりません。御臨終といわれても心臓がとまってしまっても、貴方の場合に限り死ぬなんてことが考えられるだろうか。死ぬなんて、こんなことで死ぬなんて。(中略)
それにしても貴方が亡くなる前日の2日間私たちにありったけのサービスをして下すったのは、もうお別れであったからでしょうか」(坂口三千代『クラクラ日記』)
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