じじぃの「人の死にざま_178_山上・憶良」

山上憶良 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
山上憶良は、奈良時代初期の歌人万葉歌人。姓は臣。官位は従五位下筑前守。
【出自】
春日氏の一族で、粟田氏の支族とされるが、中西進ら文学系研究者の一部からは百済帰化人説も出されている。
【人物】
702年(大宝2年)の第七次遣唐使船に同行し、唐に渡り儒教や仏教など最新の学問を研鑽する。帰国後は東宮侍講を経た後、伯耆守、筑前守と地方官を歴任しながら、数多くの歌を詠んだ。
仏教や儒教の思想に傾倒していたため、死や貧、老、病などといったものに敏感で、かつ社会的な矛盾を鋭く観察していた。そのため、官人という立場にありながら、重税に喘ぐ農民や防人に狩られる夫を見守る妻など社会的な弱者を鋭く観察した歌を多数詠んでおり、当時としては異色の社会派歌人として知られる。
抒情的な感情描写に長けており、また一首の内に自分の感情も詠み込んだ歌も多い。代表的な歌に『貧窮問答歌』、『子を思ふ歌』などがある。『万葉集』には78首が撰ばれており、大伴家持柿本人麻呂山部赤人らと共に奈良時代を代表する歌人として評価が高い。

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万葉歌人の愛そして悲劇―憶良と家持』 中西進/著 日本放送出版協会
愛に苦しむ憶良 (一部抜粋しています)
山上憶良は、思想家といってもいい歌人だと思いますが、その山上憶良が愛や自然について、何を考え、どういう心を持っていたのか、を考えたいと思います。
そこで考えておかなければいけないことは、山上憶良が、いまの韓国、当時の百済からの渡来人だったのではないかということです。わたしはこのことが彼の作品に大きく決定していると考えるのです。
憶良が4歳の663年、百済は中国、当時の唐と隣の新羅という国との連合軍と戦います。そのとき、日本は百済を援護していて、百済・日本対新羅・唐という戦いになりますが、その戦いで百済は滅亡します。
このとき、百済政府の要人は多数日本に亡命します。憶良も4歳で父親といっしょに日本にやってきたと思います。4歳で故国を離れるという体験は人間にとって大きな意味を持っているのではないでしょうか。
4歳までしかいなかった百済の自然や風土を、憶良は覚えていたでしょうか。わたし自身のことを考えてもても、数え年4歳、つまり満3歳までの記憶は、ほとんどありません。たまたま3歳のときに引越をしたものですから、そのときの光景を、ああ、あれは3歳だったのだなあと、思い出すだけです。
ですから、憶良にとっての風土が、母国の百済にあったとはいえません。ずいぶん前ですが、わたしが憶良は百済人だと主張したとき、そういってみても4歳までしかいなかったのだから、百済人らしさなどあるはずがない。憶良の作品がいくら日本ばなれしていても、すなわち憶良が百済人だというわけにはいかない、という反論があったほどです。
また一方、4歳から70年を憶良は日本ですごすのですから、いかに百済生まれであろうと、もう完全に日本人になっているはずで、日本を風土として憶良は生きてきたのだ、という推論も成り立つでしょう。
論議としてはそうなのですが、しかし事実として、憶良の中には、自然詠がまったくないのです。七夕の歌がありますが、これも宴会で伝説を歌ったもので、夜空の星を眺めた歌ではありません。秋の七草を決めたのは憶良です。知らない人はびっくりするかもしれませんが、しかしこれも七夕に供える7種類の草を選定したものらしいです。
ですから憶良の風土は日本にもない。そこでわたしは以前、彼のことを「風土のない歌人」と称したことがあります。
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先ほど憶良が百済からの渡来人ではないかといいましたが、当時の百済では仏教がひじょうに盛んで、いま残されている当時の新羅の民謡「郷歌(ヒヤンガ)」にも仏教思想を歌ったものがたくさんあります。おそらくこうした点からも、憶良が百済系の教養を持った、百済からの渡来人ではないかともいえるでしょう。
そういう文化的な文脈の中で、憶良は愛を仏教の上で捉えます。しかし、いざその仏教の教理に従って愛を否定するのかというと、むしろお釈迦さまのおっしゃったことを逆手にとって、子どもを愛するのは仕方ないじゃないかとつぶやくのです。
けっきょく、それでは憶良はどうするのか。いま、空中に浮いたような格好ですね。仏教的には愛を否定しなければいけない。しかし、子どもを愛する情を押さえることはできない。そういう矛盾の中でどういう結論を出すのか。それがこの長歌反歌にある有名な、
 「銀(しろがね)も金(くがね)も玉(たま)も何(なに)せむに勝(まさ)れる宝子(たからこ)に及(し)かめやも」
という歌です。つまり「金、銀また玉も何の役にもたたない」というのですね。
「優れた宝というのは子どもであって、いかに優れた宝であろうとも子どもに及ぶことはない」というのです。子宝という通俗的なことばもありまして、憶良は子どもを子宝として愛しているという理解もよくあると思います。
しかしそれは、じつはいまいっている深い苦悩の中から選び抜かれた結論でした。けっして単純に子ともが宝だなどというふうに考えているのではないのです。こういう苦悩を経過しながら、「いやいや、やはり子どもは最高の宝なのだ」という結論を出します。愛の束縛から逃れがたい憶良の心の苦しみは、つねに考え合わせられなければいけません。この歌が一人歩きをしては困ります。

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
山上憶良(やまのうえのおくら) (660-733頃) 73歳で死亡。
万葉集』の歌人山上憶良は、60を過ぎてから「・・・・四股動かず百節みないたみ、身体はなはだ重く、なお鈞石(きんせき)を負えるがごとし。布にかかりて立たむとせれば翼折れたる鶏のごとく、杖によりて歩まむとすれば足跛(な)えたる驢(うま)のごとし」という状態になった。関節リューマチではなかったかと思われる。
しかもこの状態が10年以上もつづいたらしい。
「殺生(せっしょう)の中に暮らしている人間でさえ安らかな生活を送っているのに、日夜善行と信仰につとめている自分が、なぜこんな重病になるのか」
と憤(いきどお)った憶良は、天平5年6月3日、見舞いの人に、
「おのこやも空(むな)しかるべき万代(よろずよ)に語りつぐべき名は立てずして」
という歌を返した。そしてこの年死んだものと推定されている。

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【きょうの言葉】「銀も金も玉も何せむに勝れる宝子にしかめやも」 山上憶良 MSN産経ニュース
奈良時代を代表する歌人の、親が子供を思う心を詠んだ歌。日本最古の歌集「万葉集」には76首が収められている。「貧窮問答歌」や「子を思ふ歌」など、庶民や弱者へ目を向けた作品が多い。
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/071017/acd0710170323001-n1.htm