じじぃの「人の死にざま_1314_金ユ信」

金庾信 - あのひと検索 SPYSEE
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飛鳥時代白村江の戦い 動画 YouTube
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Mystery of forgotten Kingdom, Jomun Kingdom 4/4 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=oDrHidhD738
金ユ信 ウィキペディアWikipedia)より
金庾信(きん ゆしん、595年 - 673年)は、三国時代新羅の将軍。新羅朝鮮半島統一に最大級の貢献をした。
【評価】
三国史記』においては金庾信に伝記3巻(巻41~巻43)を割り当てているとともに、同伝の末尾では編者の金富軾が、乙支文徳の知略や張保皐の義勇を称えながらも金庾信の功名を図抜けたものと記しており、三国統一の功績を高く評価している。

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『古代史を彩った人々』 豊田有恒/著 講談社 1989年発行
金庾信(キンユシン) (一部抜粋しています)
新羅の勇将金庾信の名は、日本では、あまり知られていないかもしれない。しかし、韓国では、たいへん有名な将軍である。金庾信将軍といえば、秀吉の水軍を破った李舜臣イースンシン)将軍と同じくらいの人気をもつ、国民的英雄といえるだろう。歴史上の活躍の重要さからみれば、乙支文徳(ウルチムントク)将軍――隋の煬帝の遠征軍を撃破した名将も、英雄の資格があるが、いまひとつ人気は盛りあがらない。乙支文徳が活躍した部隊が。高句麗――今の北韓北朝鮮――朝鮮民主主義人民共和国)だったせいかもしれない。
国民的英雄である2大将軍――金庾信、李舜臣の2人が、いずれも我が日本を相手にして名をあげた人であることは、知っておくべきであろう。おおかたの日本人は、こういう人物を、あまり認めたがらない。なぜなら、文明開化以来、日本人は、西洋の歴史を主として学んでいるから、ナポレオンやネルソンの偉業は認めても、このいちばん近い隣りの国の英雄については、なんとしても認めたくないという、自己民族中心主義が働くからだろう。
ともあれ、金庾信将軍の一生を追ってみよう。4分の3世紀以上を、武人としては異例な長寿を保って生きた彼は、その長い生涯を波乱に明け暮れしていたといえる。ナントカの申し子という表現がある。はたして韓国語に同じような表現があるかどうか、未熟な韓国語の知識では判らないが、彼こそ、戦の申し子といえよう。百済高句麗、倭と戦ったこの名称は、統一新羅の基礎を築いたのである。
金庾信は、西暦595年に、新羅の都慶州で生まれた。日本では、高句麗の僧慧慈(ヘジャ)が渡来して、聖徳太子の師となった年である。
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日本書紀』によれば、勇将の死を知り、ただちに、新羅は総攻撃をかけたという。これまでにも、金庾信は、何度もスパイを使っている。政治上のことはともかく、武骨一辺倒の軍人ではなく、戦略上の調略、駆け引きなどには、ずばぬけた人物である。スパイを通じて福信の死を知り、この機を逃さずに兵を出した――ということも、ありうることであろう。
新羅の文武王は、金庾信ら28人の将軍を率い、百済領へなだれこんでいった。劉仁軌は、進駐軍の兵力不足を訴え、新たに孫仁師の率いる40万の唐軍の派遣を受けた。
唐・新羅の連合軍が攻めよせてくるというのに、扶余豊は、白村江(錦江の河口)へ、廬原臣(いおはらのおみ)の率いる日本軍1万の到着を迎えに行っていた。傀儡(かいらい)国王は、この期に至っても、日本軍がなんとかしてくれると思っていた。事実、河口には、数百隻(『史記』では400隻、『書記』では170隻)の日本艦隊が、堂々と勢揃いしていた。白村江は、日本からの戦略物質の補給基地になっていたのである。
この時、上流から、唐・新羅の水軍が攻撃してきた。唐将劉仁軌とともに、その水軍を指揮していたのは、百済滅亡により唐に連行されていた百済王子夫余隆である。唐の庇護のもとで、孫仁師の配下の一武将として、故国征討にやってきたのである。一方の扶余豊は、日本軍をバックに国王になった男である。
白村江の戦い――として日本史で扱われる戦闘の裡(うら)に、それぞれの立場を異にした2人の百済王子がいた。
西海岸――黄海側の潮の干満の差は、たいへん大きい。時に10メートルにも及ぶことがある。百済の地で育ち、成人して唐へ連行された夫余隆は、それを知っている。これに対する扶余豊は、長らく日本で暮らし、百済のことは、なにも知らない。
潮の干満が、勝敗を左右した。日本艦隊は潮の流れにさからっているので、いくら漕いでも船が前に進まない。そこへ、潮に乗って唐・新羅の艦隊が襲ってきた。
炎と煙りは、天を焦がすようで、海水は丹(あか)くなったという。
こうして、百済再興と日本の半島進出の夢は、潰(つい)えた。
68歳で出陣した金庾信の役割は、顧問あるいはコンサルタントといったところであったろう。事実、白村江の翌年にも、百済の残党が泗ヒ城で叛乱を起こした時、彼は、鎮圧に向かう部下に、アドバイスを与え、勝利に導いたという。
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かって百済滅亡直後に、唐と一触即発の危機が訪れた時、唐との交戦をためらう王にむかって、金庾信は、たとえ相手が大唐国でも一戦を辞すべきでないと諫言している。その時は、高句麗の攻勢によって、唐と戦うことはなかったが、やがて、その事態になることを予期していたということは」、驚くべき先見の明である。
文武王13年(673)7月1日、金庾信は、自宅の広間で息を引きとった。享年79歳。大往生というべきであろう。

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