じじぃの「人の生きざま_19_王・貞治」

王貞治 756号ホームラン 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=BcDtDNxyU6Q
王貞治 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
王貞治(1940年5月20日 - )は、日本生まれ・中華民国(台湾)籍の元プロ野球選手、監督。
日本国民栄誉賞の初受賞者。現在は福岡ソフトバンクホークス球団取締役会長、読売巨人軍OB会会長、日本プロ野球名球会会長、東京都名誉都民並びに東京都墨田区名誉区民にして、福岡市かつ宮崎市名誉市民である。

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『最後の日本人』 斎藤明美/著 清流出版 2009年発行
王貞治福岡ソフトバンクホークス取締役会長) 私は"生きる伝説"に会った (一部抜粋しています)
人は生まれる時代を選べない。たとえそれが戦火の境涯であれ、飽満の巷であれ、あらかじめ誰もそれを選ぶことはできず、ただ、長い歳月を生きたあと、改めて"自分の時代"が何だったか、確認するだけだ。そして改めてその時代を思う時、私達は必ず"そこに誰を見てきたか"に思い至り、それが無意識の中で自分という人間の大切な血となり肉となっていることに気づく。だが時代を共有するその"誰か"も、私達は決して自分では選ぶことができないのだ。だから、もしその中に偉大なヒーローがいたとすれば、それはあまりにも幸運な偶然であり、果報なのである。
私は、昭和31年、日本という国に生まれた偶然を、感謝している。まだ貧しさの残る時代だったが、少なくとも今よりは、正しいことが正しいとされ、悪しきことが悪しきこととしてみなされ、努力することを誰もが美しいと信じていた時代に子供時代を送れたことを、幸せだと思っている。
そこにはいつも"王選手"がいた。
毎日、宿題が終わると、白黒テレビの前に座って、彼の登場を待った。そして「4番、ファースト、王」というアナウンスに拍手し、彼がバッターボックスで右足を上げる姿を食い入るように見つめた。私は当然のようにホームランを期待し、彼はまた当然のように小さな白球を遥かスタンドの向こうに運んだ。
あのホームラン。あの1本の放物線を、どれだけたくさんの子供が胸躍らせて見たことだろう。"王選手"は、私たちのヒーローだった。
彼がベーブ・ルースの714号ホームランに迫ろうとした頃、私は日々増えていくその数を数え、当時ヒットしていた『犬神家の一族』のロードショーを観るため日比谷の映画館の前に友達と並んだ時さえ、小型ラジオのイヤホンを耳から放さなかった。ハンク・アーロンの755号に近づいた時は大学4年、教育実習生として郷里の母校に帰った。初日の歓迎会で飲めない酒を飲み、恩師にタクシーで家まで送ってもらいながら、それでも朦朧とした意識でカーラジオから流れてくる野球中継を聞いて「打った、打った、王さんが打った」とうわ言のように言い、傍の恩師を呆れさせた。
これらは単なる、昭和30年代に生まれた1人の女の子の想いに過ぎない。その向こうには、もっと大きな、さらに熱い想いを抱いて彼のプレーを見つめ続けた、何百万、何千人という時代の人々がいたのだ。
昭和55年10月12日、最後の試合も、ホームランだった。
24歳の高校教師になっていた私は、テレビの前で泣いた。そしてその日から、私は自分が年をとっていくにつれて、彼を"王選手"としてではなく、王貞治という1人の人間として捉えるようになるのだ。もう彼のホームランに拍手して日々を過ごしていればいい幸せな子供時代は終わり、社会人となって働き、多くの人間に接し、少しばかりの恋もして、自分という人間の身丈をイヤでも知るようになって初めて、つまり、1人の人間として生きてみて、初めて私は、王貞治という人が22年間の選手生活の中で成し遂げたものの、とてつもない大きさを感じるようになったのだ。
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2006年暮れ、私は、その王貞治に会えることになった。
是非とも「最後の日本人」に出て頂きたいから手紙をしたためたにもかかわらず、取材が決まった時、私はうろたえた。どうしよう、私は野球少年ではない、スポーツ記者でもない。言ってみれば、ただのファンだ。福岡に向かう飛行機の中でも「一体、私などが何を聞く・・・・」、そればかり思っていた。20年この仕事をしている人間にはあるまじき心細さだった。
初めて見るヤフードームは、まるでこれから会う人を象徴するかのように聳(そび)え立っていた。ビル風に吹かれながら、私は広場にあるブロンズの王氏の手と握手してみた。それで 落ち着くはずもないのに。
関係者通用口から、長い廊下を案内されて、徐々に応接室が近づいてきた。あ、王さんの声がする。既に開かれたドアから、長身の姿がチラッと見えた。
王さんだ!
私の目の前に、あの"王選手"がいる。
「隣りに座ったら?」。今回の取材を叶えてくれた元スポーツ記者の田中茂光氏が、私のファンぶりを知っていて、勧めてくれた。私はドキドキしながらその言葉に甘えた。
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そうだ、大事なことを聞かなければ。
−−ところでベーブ・ルースを抜き、ハンク・アーロンの記録を抜き、もはや競う相手が世界に誰もいなくなった時、つまり自分1人が未踏の空間に出てしまった跡はどんな心境だったんでしょう?
「本当のことを言って、800本を超えてからは、生活のペースも野球以外の雑事が多くなりましたよね。それプラス、やっぱり打ち込む度合いというのが薄れてきました。確かに。記録は破られるためにあるから、抜くまではみんな一所懸命にやるわけですが、抜いてしまうと、張り合いのようなものが薄れるんです。だから僕は、756本打った後、868本までよく来たなと思いますよ。自分で。燃えるものが少なくなってきちゃうんですよね。それを確かに自分で感じながらやってました、最後のほうは。だから打ってもあまり嬉しくないし、打たなくても口惜しくない。僕の一番の原動力は、打てなかった時の口惜しさだったんですけどね」
−−一番嬉しかった時は?
「何でしょうね・・・・。やっぱり甲子園での優勝のほうが、プロでの成功云々より嬉しかったですね。自分の価値観としては」
だが、貞治少年は国体出場を拒否された、国籍を理由に。早稲田実業高校時代、2年生の春のセンバツで投手として見事に優勝を飾り、夏には延長線ノーヒットノーランという記録を達成しているにもかかわらず。
−−こんなことを言ってはいけないかもしれませんが、私は、王さんが国民栄誉賞を受けた時、政府は国体の時のことを一言謝るべきだったと思うんです。
「でも僕はその時、国体のことなんか思い出しもしなかったですよ。あのね、面白いことがあるんです。僕がホームランをガンガン打っていた頃、大正製薬のリポビタンDのコマーシャルをやったんです。そしたら、当時の厚生省が『誇大広告だ』と。要するに、これを飲んでいると王のようにホームランを打てるというような表現になるから、王を使っちゃいけないと(笑)。で、結局、僕はそのコマーシャルをやめたんです」
ひどい話である。それにしても、たとえ当時の責任者ではないにしろ、国民栄誉賞を授与する時、「あの時は申し訳なかった。政府を代表してお詫びします」、そんな一言が言えるトップがいたら、日本の政治家も捨てたものではないと思うのだが・・・・。
−−逆に一番辛かったことは?
「僕は46年に大スランプになって1年間打てなかったんです。打てていたものが打てなくなるというのは、これは辛かったですね。荒川(博)さんからの指導を離れて自分1人でやったら、やっぱりガラッと落ちましたよ。でもそこを抜けたから7試合連続ホームランとか3冠王というのに繋がった。その経験はすごく大きかったと思います。"七転び八起き"という言葉があるけれども、本当に、転ばないと人は起き上れないんですよ。一旦転ぶからこそ、前より高いステップにいける。転ぶことは必要なんだと僕は実感しました」
−−一番尊敬する人は?
「やっぱり親父でしょうね。お袋さんは、本当は大事なんだけど、僕らの時代には存在しているのが当たり前みたいな感じでしたから。両親が結婚したのは昭和3年くらいで、顔もろくに見ないで結婚したみたいですよ(笑)。でも2人が喧嘩したりなんて姿は一度も見たことがないです。僕は浪花節じゃないけど、男は度胸、女は愛嬌だと思ってるんです。やっぱり、男らしい、女らしいとか、"らしい"というのは大切だと思います。お互いが認め合って、お互いにない部分を補い合って1つになるというのがいいんじゃないかな」
−−ご自分の性格を表現すると?
「不器用で、バカの1つ覚えかな。もうちょっと計算高く生きればいいのにねと思われているんじゃないでしょうか(笑)」
王選手は毎年、契約も一発更改だった。
今なら、松坂やベッカムどころではない報酬を貰ってもいいのに、契約の時、自分から年俸を吊り上げることをしなかったのだ。
−−人として一番大切にしているものは?
「誠実さですね。人はどうあれ、自分はここまで来たら変えられないし、でも生まれ変わったらわかりませんよ、不誠実かもしれない(笑)。僕はセルフィッシュな人生に魅力を感じている部分もあります」
一度聞いてみたいことがあった。
−−最後に変な質問ですが、どんどん記録を塗り替えていた頃、例えば1人きりで部屋にいるような時に、ふと、「俺って結構凄いな」と思ったことはありませんか?
「僕はそういうふうに思ったことはないですね。当事者は、自分が今やっていることだから、そんなに凄いとは感じないんですよ」
−−チラッとでも?
「僕は逆に、有頂天になったら打てなくなるんじゃないか、神様に怒られるんじゃないかというのはありましたよ。今言われたような気持ちに僕がなっていたら、当時、給料を倍もらってますよ(笑)」
別れ際、握手してもらった氏の手は、以外に"普通"だった。この人は"超人的"だが超人ではない。当たり前の1人の人間が気力の限り努力し、「人の役に立てるように」という父の教えを実践したのだ。
私は、王貞治という人を見ていると、人間の限りない可能性を感じる。
こんな人、もう二度と現れない。

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