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『「だまし」に負けない心理学』
世の中に情報があふれればあふれるほど、どれが正しくどれが間違っているのか、見分けるのがむずかしくなる。人を不安に陥れるような言説もたくさん飛び交うなか、人はいったん不安にとらわれてしまうと、冷静な判断力を失い、正しい情報や科学的な答えをではなくて、不安を取り除いてくれそうな人や言葉を求めてしまう。
なぜ人はだまされるのか。それに対抗するためにはどうすればよいのか。
5 <私>はどこへ行ったか より
<私>はあてにならない
これまでの章でも、「これこそ私のことです!」と納得する分析がバーナム効果による「どこにでもいる私」であったり、マインドコントロールにより誰かに与えられた価値観を簡単に「これぞ私自身の考え」と思い込んでしまったりする例例、をいくつも見てきた。結局、「私」とはたかだかそんなものなのである。よく「難解なことを考えていても、歯痛がしてくるだけでどうでもよくなる」などと言われるが、痛み、空腹、寒さや暑さといった生理的な変化で、人格や信念が揺らいでしまう経験も誰にもあるはずだ。
私たちは信じたいものしか信じない
だとすると、そんなあやふやな<私>がいくら「これが私の意思だ」「自己決定こそがいちばん重要だ」といっても、それが信頼できる意思や決定なのかどうかも、やっぱりいまだにわからないということになる。
とはいえ、「だから、自分では何も決められない」「私のいまの意思が、本当の意思かどうかなんて、わからない」と言っていては、時流から取り残され、結局は誰かのいいように扱われてしまうだけだ。
こんな状況の中で、社会の難問は増える一方で、何かにつけて私たちは「さあ、あなたはどっち?」と選択や決断を迫られる。では、私たちはどうやって「私はこうしたい」「私はこうしたほうがいいと思う」と決めていけばいいのだろう。何をもってして、「自分の意思」とすればいいのだろう。それがたとえ「とりあえずの選択」だとしても、何かを選ばなければならないときに、どうすればよいのか。
前半の章で述べたように、ものごとを決めるにあたって、私たちが陥りやすいいくつかの罠がある。それは、次のようなものだ。
①私たちは、正しい選択をしようとして、実は自分が”いい気分”になれるような選択をする。
②その”いい気分”をさらに具体的に言うと、それは「自分が特別でかけがえのない人間」という自尊心、自己肯定論を満足させてくれるようなものである。
③私たちは、多くの人がそちらを選択するであろうと思われるほうを、自分の選択としがちである。
もっとわかりやすく言うと、私たちは「信じたいものしか信じない」のである。選択はその結果に従って行われることになる。
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どうでもいい、じじぃの日記。