じじぃの「人の生きざま_18_戸田・奈」

毎日動画 戸田奈津子さん トークショー「字幕翻訳の妙味」 動画共有サイト
http://video.mainichi.co.jp/viewvideo.jspx?Movie=48227968/48227968peevee277338.flv
戸田奈津子 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
戸田奈津子(とだなつこ、1936年7月3日 - )は、映画字幕翻訳者である。東京都出身。お茶の水女子大学附属高等学校を経て津田塾大学英文科卒業。映画翻訳家協会元会長。第一回淀川長治賞受賞。神田外語大学客員教授神田外語学院アカデミックアドバイザー。

                                        • -

『最後の日本人』 斎藤明美/著 清流出版 2009年発行
戸田奈津子(字幕翻訳家) 夢を叶えることの厳しさを知っている人は美しい (一部抜粋しています)
私は3日に一度は近所のビデオ店を覗く。借りるか借りないかを決める材料になるのがパッケージの裏にある字幕翻訳者の名前だ。もしそこに「戸田奈津子」の名前があれば「この作品は間違いない」と判断する。
「そう言われると心苦しいけど、私も決してえり好みはしていませんし、大していい内容で無い作品も(字幕の依頼が)くるんです。でも一度『やるわ』と言って試写を観てしまうと、つまらないから『やめる』とは言えないわけ(笑)。素晴らしい監督でキャストもいいのに中身がひどい時もありますしね」
戸田さんは苦笑したが、それでも、作品のある水準を保証する目安になることは確かで、それほどまでに"字幕翻訳・戸田奈津子"には信用がある。それもフリーで仕事をする人間にとって、信用は、全てと言っていいほど重要なものだ。
今や戸田さんはその道の大家であり、若い世代は、40年も50年もキャリアがあると思っているだろう。だが意外にもまだ25年なのだ。それは字幕翻訳の世界が持つ特殊性によるもので、その中でなお自身の夢を実現したこの女性に、私は大いなる尊敬の念を抱くものである。
戸田さんは生後すぐに父親を戦争で亡くし、母と一緒に父親の郷里・愛媛県疎開した。蚊や蚤(のみ)に刺され身体中おできだらけになってしまう幼子を連れて母親が"避難"したのが、町でただ一軒の映画館だった。23歳で未亡人になった母は教師や会社努めをしながら一人娘を育てたのだ。終戦後、帰京してからも、母は勤め帰りに娘と待ち合せて一緒に映画を観たり、バレエやオペラを鑑賞したという。
<この時期、私にとって映画はビジュアルに語られる世界文学全集だった>〜『字幕の中に人生』(白水社)より
美女と野獣』『仔鹿物語』『愛の調べ』・・・・。中学生になると『赤い靴』『黒水仙』『田園交響楽』『オルフェ』『風と共に去りぬ』・・・・中でも『第三の男』・・・・。奈津子さんは無類の映画少女になっていた。そして「映画のあの言葉が知りたい」と英語にも興味を持つようになる。そして大学3年の終わり、卒業後の進路を考えねばならない時に、「字幕の仕事がしたい」と思うのだ。
人は子供の頃「こんなふうになりたい」という"夢"を持つ。だが殆(ほとん)どの人はそれを諦める。諦める時期は、学生をやめる時だ。私など夢らしい夢もなかったが、同級生が就職活動に疾走している時、「本を読んだり映画や芝居を観て暮らしていけないかなぁ」と呟いたら、友人に「そんなことできるわけないでしょッ。あなたは世の中の役に立とうという気持ちはないの?」と叱責された。私は「ない」と即答して、友人を呆れさせた。その友人など典型的な母校の模範性だ。わたしはもし今同じ質問されても、同じ答えをすると思う。結果的に世の中の役に立てれば幸いと思っても、端(はな)から「世の中の役に立とう」などと考える"高邁な精神"は、私にはない。
私が戸田奈津子という人を好ましく思うのは、自分の夢に忠実だったこともさることながら、そのやり方が、失礼な言い方かもしれないが、非常に不器用だったことだ。希望と野望は違う。野心家の女性は私も大勢知っている。手段を選ばず効率よく自分の夢を叶えていった利口な人は山ほどいる。だが戸田さんのように、愚直なほど控えめに自分の夢を捨てなかった、そういう人は、少ない。
好きな映画と英語を仕事にするには・・・・。唯一の手掛かりは映画の巻頭タイトルに出る字幕翻訳者の名前だった。そこで戸田さんは当時、英米映画を一手に引き受けていた清水俊二氏に手紙を出すのだ。だが氏は親切に会ってくれたものの、「字幕をやりたいとは困ったねぇ・・・・」と顔を曇らせた。師弟関係が成り立つ仕事ではないからだ。そして日本に輸入される洋画の数からすれば、字幕翻訳者は20人もいれば事足りる。その需要と供給の関係は現在も変わらない。
「今でこそ女性もいますけど、当時は全部男性。20歳そこそこの私からみればオジサマよね(笑)。みんなソフト帽なんか被った紳士で。『何? この女の子』みたいな感じよ。でもね、女性差別はなかったんです。官庁じゃないんだから。だから逆に問題にもされず、警戒もされなかったの。言ってみれば、隙を突いて入っちゃったみたいな(笑)。でも20年かかりましたけどね」
20年・・・・。
そうなのである。大学を出たら母親に代わって自分が働き手になる、それが母娘の暗黙の了解だったため、自分の食い扶持(ぶち)ぐらいは稼がなければならない。かと言って字幕で食べていける見込みは到底ない。戸田さんはOLになった。会社が日比谷の映画館に近いことが魅力だったというから、あくまで考えるのは映画のこと。だが組織に向かない自分を痛感して1年半で会社をやめる。そして「翻訳何でも承ります」と、通信社の英文原稿作成、化粧品会社や広告代理店の資料翻訳などあらゆるアルバイトをしながら生活していくのだ。
−−結婚したほうがいいんじゃないかと気持ちが揺れ動いたことはないんですか?
「それがあまり揺れ動かなかったのね。いい男に巡り合わなかったのよ(笑)」
−−でも女手一つで育ててくれたお母様に申し訳ないという気持ちは?
「もちろんありました。いわゆる適齢期の頃は愚痴も言われましたし、でもお見合いは義理で何回かしたんですよ。全然その気がないのに、相手の方には大変悪かったけど。でも35過ぎたら、母もかなり諦めてた。うちは世間で言う母一人子一人のベッタリした関係じゃなく、お互いにわが道を行く、他人みたいなところがあるの。私も母を優しく労ったりしないし、冷たいもんよ(笑)。本当はお互い気を遣ってるんだけど、立ち入らない。変な親子でしょ(笑)」
     ・
これまで戸田さんは約1500本の映画を翻訳している。最近は海賊版禍を恐れ製作会社も公開直前にならないとフィルムを日本の配給会社に渡さないから、出来上がった映画を翻訳すれば一本上がりというわけではない。例えばS・スピルバーグ監督の『宇宙戦争』などは日本が世界初プレミアだったので、2週間前に未完成のビデオ版が送られてきて、完成品を観たのはプレミアの2日前。そこでカットされた場面などを整理して字幕を付け、プレミアに間に合わせるという離れ業をやったのだ。

                                        • -

戸田奈津子 Google 検索
http://images.google.co.jp/images?hl=ja&rlz=1T4GZAZ_jaJP276JP276&q=%E6%88%B8%E7%94%B0%E5%A5%88%E6%B4%A5%E5%AD%90++%E7%94%BB%E5%83%8F&lr=&um=1&ie=UTF-8&ei=HRRVS-vaNo2gkQWy1umiBg&sa=X&oi=image_result_group&ct=title&resnum=1&ved=0CBAQsAQwAA