じじぃの「人の死にざま_1474_クラーク・ゲーブル」

Gone with the Wind (1939) Trailer - Clark Gable Movie 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=0X94oZgJis4
Frankly My Dear, I Don't Give a Damn - Gone with the Wind (6/6) Movie CLIP (1939) HD 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=GQ5ICXMC4xY
I don't give a damn
http://xn--6oq618aoxf2r6an3hvha.jp/4266.html
クラーク・ゲーブル ウィキペディアWikipedia)より
クラーク・ゲーブル(Clark Gable, 1901年2月1日 - 1960年11月16日)は、アメリカ合衆国の映画俳優。1930年代を代表するビッグスター。
なおゲーブルは十代の一時期、父親の名前を自分の名前に冠して「ウィリアム・クラーク・ゲーブル」としていた頃があったが、これはすぐに止めている。
【スター】
ハリウッドでは端役での映画出演を行ったが、その後舞台演劇に戻った。舞台での活動が、大手映画製作会社のメトロ・ゴールドウィン・メイヤー社の幹部の目にとまり、1930年に契約し翌年から多くの映画に出演、「キング・オブ・ハリウッド」の異名をもつ大スターとなる。1931年にゲーブルはジョセフィーンと離婚した。
ゲーブルは『或る夜の出来事』で1934年にアカデミー主演男優賞を受賞した。しかしながらゲーブルの最も有名な出演作は1939年の『風と共に去りぬ』である。同作のレット・バトラー役で彼はアカデミー主演男優賞のノミネートを受けた。1935年の『戦艦バウンティ号の叛乱』でのフレッチャー・クリスチャン役でもアカデミー賞の指名を受けている。ゲーブルはアカデミー作品賞受賞作品に三度主演した数少ない俳優の一人である。

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『字幕の中に人生』 戸田奈津子/著 白水社 1994年発行
映画の流れとせりふの変化 (一部抜粋しています)
字幕を仕事とする者としては、つい言葉というものに目がいってしまうのだが、言葉という切り口から見ても、アメリカ映画は60年代末から70年代にかけて1本の太い線を引けるほど、劇的な転機があった。
私の学生時代、50年代から60年代には、たまたま手に入った『タイム』や『ニューズウィーク』の類の雑誌をめくると、ときどき”d――”とか”f――”という言葉にぶつかったものである。”d――”は小説でもお目にかかったのでdamnだとわかるが、”f――”とはなんのことなのか。辞書で引いてみようとしたが、それらしい言葉は見当たらない。見当たらないのは当然。当時は日本語の辞書でも英語の辞書でも、今日の映画スクリーンで弾丸のように飛び交うこの四文字言葉は、切り捨てにされていたのである。
damnで有名なのは『風と共に去りぬ』のエピソードである。だれもが知っているラスト・シーン。レット・バトラーが自分を愛してくれていたことを知ったスカーレットは、「行かないで。わたしはどうすればいいの?」と追いすがる。だがバトラーは冷たくこう言い放って出てゆく。
”Frankly, my dear, I don't give a damn.”(はっきり言おう。私の知ったことか)
1936年にこう書かれた原作が映画化されたのは1939年。活字では許されても、映画で使うとたちまち宗教団体からつるし上げを食う。この禁を犯した場合は、当時としては大金の5千ドルの罰金を支払わされることになっていた。
この大作にチャレンジしたプロデューサー、デイビッド・O・セルズニックは悩んだあげく、クラーク・ゲーブルに2通りのせりふをしゃべらせて、このシーンを撮影したという。1つはこのオリジナルのセリフで、もう1つは”Frankly, my dear, I don't care.”というソフト版だった。
しかし、このせりふは小説のラスト・シーンであまりにも有名である。セルズニックは「映画の劇的効果」のために5千ドルの罰金を覚悟に原作どおりのせりふを選んだ。
damn一言が5千ドル。わずか50年前の話である。