じじぃの「赤狩り・ローマの休日・ハリウッドに最も嫌われた男!トランボ」

Trumbo, Red scares & the art of writing in the bath

Hollywood blacklisted my father Dalton Trumbo: now I’m proud they’ve put him on screen

Sat 16 Jan 2016 The Guardian
Mitzi Trumbo on the father who wrote Spartacus and Roman Holiday and was a victim of Hollywood’s anti-communist witch-hunts
https://www.theguardian.com/film/2016/jan/16/dalton-trumbo-hollywood-blacklist-mitzi-trumbo-bryan-cranston

『映画になった奇跡の実話 これが美談の真相だ』

鉄人ノンフィクション編集部 鉄人文庫 2021年発行

トランボ ハリウッドに最も嫌われた男 より

赤狩り」に屈しなかった脚本家ダルトン・トランボの気骨と信念の生涯

ダルトン・トランボ。映画ファンなら誰でも知る名作「ローマの休日」の脚本家である。が、この作品が公開された1953年、エンドロールには別の人物の名前がクレジットされていた。1940年代後半から1950年代半ばのハリウッドに吹き荒れた「赤狩り」により、共産主義者のレッテルを貼られたトランボは映画界から追放状態にあり、実名を伏せ執筆活動に従事していたのだ。
2015年公開の「トランボ ハリウッドに最も嫌われた男」は、不当な扱いに決して屈せず、己の信念を貫いた脚本家ダルトン・トランボの半生をほぼ忠実どおりに描いた伝記ドラマの傑作である。
トランボは1905年、米コロラド州に生まれた。高校時代から地元日刊紙のアシスタント記者として働くなど才能を開花されていたが、進学したコロラド大学在学中に父が病に倒れ中途退学。実家に戻り、その後8年間、パン工場で働き家計を支えながら小説家を目指し、独自に執筆活動を続けていた。
映画界と繋がりができるのは20代後半。酒や密売をしていた自身の経験を書いた記事が雑誌に掲載されたことで映画評論家、編集者として職を得た後、知人の紹介でワーナー・ブラザーズの脚本部へ。1936年に映画「ロードギャング」でデビューを飾り、1940年の「恋愛手帖」ではアカデミー脚色賞にノミネートされるなど着実にキャリアを重ね、本作「トランボ~」の物語が始まる1947年当時、ハリウッドの売れっ子脚本家の1人になっていた。
映画界と繋がりができるのは20代後半。酒の密売をしていた自身の経験を書いた記事が雑誌に掲載されたことで映画評論家、編集者として職を得た後、知人の紹介でワーナー・ブラザースの脚本部へ。136年に映画「ロードギャング」でデビューを飾り、1940年の「恋愛手帖」ではアカデミー脚本賞にノミネートされるなど着実にキャリアを重ね、本作「トランボ~」の物語が始まる1947年当時、ハリウッドの売れっ子脚本家の1人になっていた。
映画では描かれないが、生涯添い遂げる妻クレオ(1916生)と結婚したのが1938年。ドライブイン・レストランで水野入ったグラスを器用に扱うクレオ(崖中、彼女を演じたダイアン・レインがジャグリングを披露するシーンがある)を見たトランボの一目惚れで、後に、夫妻は二コラ(1939生)、長男クリスタファー(1940生)、次女メリッサ(1945生)を授かる。
脚本家として活躍する一方、トランボは自身の思想信条から1943年にアメリ共産党に入党したが、第二次世界大戦後の米ソ冷戦下、ハリウッドに共産主義者と同調者を排除する赤狩り旋風が巻き起こり、立ち場が危うくなる。
赤狩りを主導した下院非米活動委員会は共産主義に加担していると思われる映画スタッフ・俳優のブラックリストを作り、1947年10月、第1回聴聞会を実施。ハリウッド映画界の著名人19人を召喚する。トランボもその1人だった。
    ・
この赤狩りにより、1954年までに約1万人の映画人が仕事を干され、約250人が国外に脱出した。有名なところでは喜劇王チャールズ・チャップマン。1947年の「殺人狂時代」が左翼的な作品として何度も召喚命令を受け、1952年、ロンドンでの「ライムライト」のプレミアのために向かう船の途中、アメリカ政府当局から事実上の国外追放処分となり、スイスへの亡命を余儀なくされた。
また、1952年の名作「真昼の決闘」の脚本家カール・フォアマン共産党員だったため、ジョン・ウェインら右派の大物から同作のアカデミー賞受賞を妨害されイギリスに亡命。その後デヴィッド・リーン監督作「戦場にかける橋」(1957)でアカデミー脚本賞を受賞したが、公開当時は赤狩りによって名前をクレジットされていない(後年に復活)。
    ・
一方で、メジャー映画会社への売り込みも忘れず、1940年代半ばに書き上げていた「ローマの休日」を脚本家の友人イアン・マクレラン・ハンターの名を借りて、1953年、パラマウント社で映画化。同年のアカデミー賞オードリー・ヘプバーンが主演女優賞を受賞した他、原案賞(1956年を最後に廃止)を獲得した。もちろん、世間は本当の作者がトランボであることなど全く知らなかった。
翌1954年、トランボはアメリカに戻り、2年後の1956年、またもオスカーに輝く。キング・ブラザーズ社制作の「黒い牡牛」。母を亡くしたばかりの貧しいメキシコ農村の少年と、同じく母牛を失った闘牛用の子牛との絆を描いたこの作品で同年のアカデミー原案賞を受賞したのだ。このときトランボが使った偽名「ロバート・リッチ」はキング兄弟の親戚の名で、授賞式では「ロバート・リッチは妻の出産のため、やむをえず欠席した」とだけ告げられた。
作中に説明はないが、2つの作品にはトランボの意思が込められていると言われる。「ローマの休日」で有名な、グレゴリー・ペック扮する新聞記者とヘプバーン演じるアン王女が「真実の口」に手を突っ込むシーン。あの場面は、トランボがかつて聴聞会で「真実を述べろ」と言われ拒否した自身の経験の投影であり、「黒い牡牛」のクライマックスで闘牛場の観客が大合唱するシーンも、そこで歌われた「インドゥルド(闘牛界で『恩赦』の意)なる曲で、自身の不遇を訴えたのだという。
    ・
オットー・プレミンジャー監督作「栄光への脱出」はトランボが1970年3月、全米脚本家組合の功労賞を受けた際、赤狩りに遭った自身と、支えてくれた家族への思いを口にする感動的なスピーチで終わる。そしてエンドロールのクレジットで彼が1975年に「黒い牡牛」のオスカーを受け取り、翌1976年に70歳で死亡したこと(遺作は1973年公開の「パピヨン」)、また妻のクレオが1993年、「ローマの休日」のオスカーをトランボに代わって授与され、2009年、93歳でこの世を去ったことが示される。

                  • -