じじぃの「人の死にざま_168_津田・梅子」

津田梅子 - あのひと検索 SPYSEE
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津田梅子 動画 YouTube
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プロジェクトJAPAN 「自立する女性のための学校を設立 津田 梅子」 動画 NHK
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津田塾大学 - 津田梅子について
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日本史有名人 [おやじの背中]  新人物往来社/著 新人物文庫 2009年発行
津田梅子 近代日本の女性パイオニアを育て上げた父 梅田仙  (一部抜粋しています)
梅子数え4歳の慶応3年(1867)、勘定吟味役の小野友五郎の随員として、仙は福沢諭吉らとアメリカに渡った。そこで四民平等が基本の西洋政治、産業革命で発展する社会に感銘を受けて帰国した。しかし日本は戊辰戦争に突入し、幕臣として越後に走り、敗北を味わい、逃れて維新の東京に戻った。この間、仙は妻初子に手紙で、梅子に欠かさず読書をしつけるよう求めた。そしてこの後も仙は梅子の教育を怠らず、手習に通わせている。女に教育はいらないとする社会風潮の中で、アメリカを見た仙は、女も男と同等であるとの意識から、娘への教育に熱心だったのだ。
仙は己の生活の基盤だった幕府崩壊、薩長新政府の樹立という時代変革のもとで、官を頼らず、外国人居留地にできた築地のホテルにつとめ、また麻布に農園を開き、アメリカで興味をもった西洋野菜の栽培をはじめた。
仙の目はいつも西洋に向くなかで、開拓使女子留学生の募集を知って、娘梅子のアメリカ留学を願い出る。それは自分が驚愕したアメリカ社会で、未来への芽を育ててほしいという親心とともに、自分の夢を強引に娘に託すエゴ的な部分もあった。
かくてわずか8歳の梅子は親元を離れ、明治4年(1871)11月、他の4人の仲間とともに、欧米視察の岩倉大使一行に同行してアメリカに渡った。仙が旅立つ娘に送ったのは、「英語入門書」と「英和小辞典」であった。梅子はランメン夫妻の家で10年余りも世話になり、すっかりアメリカナイズされ、帰国した時には日本語を忘れていた。
仙は梅子をランメン夫妻に預けている間、知人の娘(梅子より2歳年下)を預かり、梅子の代わりに養育した。この女性こそ後の日本最初の女性記者となる松本英子であり、アメリカにも留学している。
仙はまた学農社農学校を設立し、青山学院女子部の前身である築地海岸女学校もつくる。仙も梅子同様にクリスチャンになる。梅子は父仙の姿を追いかけて、さらに父を乗り越えて、女子教育の先駆者となったといえる。
仙は足尾鉱山の鉱毒事件にも関心を示し、現地を視察し反対運動の世論を高める運動をする。仙に養育された英子は、購読の悲惨さを訴える記者となった。仙はわが娘と預かった娘を近代日本のパイオニアに育て上げたのである。 (楠戸義昭)

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
津田梅子 (1864-1929) 65歳で死亡。 (一部抜粋しています)
明治4年、8歳で岩倉大使らの欧米視察の一行に加えられて渡米し、留学生としてアメリカに学んだ津田梅子が、明治15年、18歳で帰国したときは、日本語がまったくカタコトの状態になっていた。
その後、華族女学校や女子高等師範などの教授を経て、明治33年、女子英学塾(のちの津田熟大)を創設した。
梅子がひどい疲労や渇きなど身体の不調をおぼえたのは大正6年の春ごろ、53歳のときであった。診断の結果、糖尿病と判明した。
大正6年、梅子の英文の日記。(妙)
「1917年6月1日。
 ・・・・もう今日でまる3週間になるが、退院の見通しもない。いつ終わるというあてもない長い長いこれからの病気というい牢獄の暮らし。・・・・
 あるいは今までやってきたことはすべてこれで終わりになるかも知れない。一つの活動する生命の終り」
「6月13日。
 自分自身のことにクヨクヨすることはない。永遠の事象の中で、私や私のしたことなどとるに足らぬものだということを知らねばならない。新しい芽のためには、一粒の種子(たね)は砕けなければならない。私が死んでも、熟が育てた人々は次々と種子を蒔(ま)いてくれるだろう。(中略)
 ・・・・私の生命は他人のためのものであって、自分のためのものではない。なぜこんな不運に見舞われるのか。なぜもっと長く生きられないのか。
 しかし、私よりもっと価値のある、数限りない生命が、若い盛りに死んでゆくことにも理由がない。
 そして、この孤独と寂寥(せきりょう)の意を人は問い得ない」
以後療養につとめたがとみのは回復せず、彼女は英学塾長の職を辞し、引退静養の生活にはいったが、大正8年、こんどは脳溢血の発作を起こして半身が不自由になった。
それから10年、昭和4年8月16日、鎌倉の別荘にあった梅子は、日記に、
「Storm last night」
と、ただ一行書いた。「昨夜、嵐」
その嵐が過ぎて鎌倉の海に月齢10日の月がのぼった8時ごろ、胸苦しそうなので看護婦がさすると、
「喘息だからじき直ります。そっとしておいて下さい」
と、いった。
それから1時間ばかりたった9時25分、彼女はまた脳溢血の発作を起こして息をひきとった。

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