じじぃの「人の死にざま_153_長谷川・如」

長谷川如是閑 - あのひと検索 SPYSEE
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長谷川如是閑 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
長谷川如是閑(はせがわにょぜかん)は、日本のジャーナリスト、文明批評家、評論家、作家。明治・大正・昭和と三代にわたり、新聞記事・評論・エッセイ・戯曲・小説・紀行と約3000本もの作品を著した。大山郁夫らとともに雑誌『我等』(後に『批判』)を創刊し、大正デモクラシー期の代表的論客の一人。「如是閑」は雅号、本名は萬次郎。
【略歴・人物】
東京下町の江戸っ子らしく、ドイツ流の「観念論」(借り物思想)を排し、個々人の「生活事実」を思考の立脚点とした。本来は庶民の生活維持のために作り出された国家の諸制度が、歴史の過程で自己目的化するさまを鋭く批判。英国流のリベラルで国民主義的な言論活動を繰り広げ、職人および職人の世界を深く愛し、「日本および日本人」(日本の文化的伝統と国民性)の探求をライフワークとした。
1946年最後の貴族院勅撰議員となり、1947年に帝国芸術院会員となる。さらに1948年文化勲章を受章し、1954年東京都名誉市民にも選ばれている。 晩年は小田原市板橋に八旬荘を構えて住み、近所に住む松永安左エ門らと親交があった。
主著に、『日本的性格』『現代国家批判』『現代社会批判』『真実はかく佯る』『搦め手から』『凡愚列伝』『倫敦! 倫敦?』『ある心の自叙伝』など。 友人のジャーナリスト丸山幹治の息子丸山眞男や、仏文学者辰野隆等に大きな影響を与えた。

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【社説】 大晦日に考える 日本人の見えざる変化 2009年12月31日 東京新聞 (一部抜粋しています)
経験主義と現実主義で
 四方を海に囲まれた日本は過去何度も時代の大波に洗われてきました。近代で言うなら黒船来航の明治維新、米国に負けた昭和の戦争の二つです。この難局をどうにか克服できたのは、日本人が古来培ってきた経験主義や現実主義という特質のお陰(かげ)だと思います。
 学者ではないが鋭い文明批評家だった長谷川如是閑は、明治維新の欧化は日本人にはごく自然なことだった、と述べています。彼自身、英米デモクラシーの支持者でフランスやドイツの急進的また思弁的な思想よりも英米の経験や現実重視の方が日本に適合すると考えていました。
 もう少し如是閑の話をすると、彼は明治八年、東京・深川の生まれ。祖父は大工の親方、父は木材問屋。自ら職人気質の江戸っ子と誇り、そのことを愛していた。
 著書の「私の常識哲学」では、ある友人は建築場で冬でもないのに、どてらに昔風の固いカンカン帽だ、なんて書いていました。建築場ではいつ上から物が降ってくるかもしれないから、というのです。冗談のようですが、そういう経験的で現実的な行動は、日本人ならだれでも、ああそうだね、と思い当たるところなのではありませんか。
 そういう日本人論が彼の本意であり、彼は英国の哲学者バートランド・ラッセルの、英国の哲学は哲学否定の哲学である、という言葉が大好きでした。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2009123102000064.html
『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
長谷川如是閑 (1875-1969) 94歳で死亡。 (一部抜粋しています)
青年時代までは病弱でありながら、世人の多忙ぶりを見て、余は「是(かく)の如ク閑ナリ」ときめこんだ生活が、かれの長命の原因ではなかったか。
彼は80歳のとき友人知己(ちき)からプレゼントされた、箱根の山と伊豆の海を見わたす小田原の八旬荘で、生涯独身の静かな晩年を送っていたが、昭和44年11月4日、腹痛を訴えて小田原市立病院に入院した。
11月7日、見舞いにいった岩波書店小林勇は記す。
「・・・・小田原の病院へいって病床の翁の様子をきくと、はじめ8度ぐらいあった熱が、現在6度5分ということであった。入歯をはずしているので、いささか老婆めいた口つきになっていた。私の行ったことを喜ぶように見えた。そして明日退院する。としっかりした声でいった。翁はすでに数年前から耳が遠くなっているので、普通の声では聞こえない。私は翁の耳に口をつけて、そんなことをいってはいけない、といった。翁はそれでも病院はいやだから明日は退院する、と繰り返した。そこでわたしは耳許(みみもと)で大声をあげて、退院するなら歩いて帰れ、と怒鳴った。すると翁は、そんなことは出来ない、と弱々しくいったので私は、みんなが心配しているのだから無茶なことをいったり我儘なことはしないようにして下さい、早くよくなって帰りましょうね、といった。翁はうんうん、とうなずいたので、握手しよう、というと手を出した。その握力は非常に強いので、私は安心して、喜んだ」
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「・・・・その間にもいくたびか危機が来たと医師団から判断された。しかし93年を生きのびた翁の生命力は強靭であった。意識はもちろん明瞭であり我儘もいぜんとして改まらない」
11月11日が来た。
「・・・・その日午前10時ごろから翁の生命は徐々に終焉に近づいていった。院長はじめ全医師団、そして私たちが見守っている中で、呼吸は次第に静かになっていった。そして、11時17分、如是閑長谷川万次郎翁は、93年11ヵ月11日の生涯を閉じた。
私は多くの長寿者の死を見た人間である。しかし、如是閑翁のような静かな死の姿を見たことはかってなかった」(小林勇『追憶・終焉記』)

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長谷川如是閑の言葉
「男は結婚によって女の賢を知り、女は結婚によって男の愚を知る」

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