じじぃの「人の死にざま_150_小松・帯刀」

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小松帯刀 動画 YouTube
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小松清廉 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
小松清廉薩摩藩士、明治時代初期の政治家である。本姓は平氏(平惟盛入婿により建部氏より改姓)。家系は禰寝氏嫡流の小松氏当主。通称は尚五郎、帯刀。元の諱は兼才。官位は従四位玄蕃頭。家紋は抱き鬼菊の葉。一般には小松帯刀(こまつたてわき)の呼び名で知られる。
【経歴・人物】
天保6年(1835年)、薩摩国鹿児島城下の喜入屋敷にて喜入領主・肝付兼善(5500石)の三男として生まれる。安政3年(1856年)、吉利領主・小松清猷(2600石)の跡目養子となって家督を継承し、宮之原主計の養女となっていた清猷の妹・千賀(近)と結婚した。安政5年(1858年)、帯刀清廉と改名。
長崎で西洋水雷などを研究した後の文久元年(1861年)、島津久光に才能を見出されて側近となり大久保利通と共に藩政改革に取り組んだ。文久2年(1862年)には久光による上洛に随行し、帰国後は家老職に就任した。薩英戦争では、研究した水雷を鹿児島湾に配置するなど尽力する。戦後は集成館を再興して特に蒸気船機械鉄工所の設置に尽力する一方で、京都に駐在し主に朝廷や幕府、諸藩との連絡・交渉役を務め、参与会議等にも陪席した。他方で御軍役掛、御勝手掛、蒸気船掛、御改革御内用掛、琉球産物方掛、唐物取締掛など兼務するなど藩政をリードし、大久保や町田久成とともに洋学校開成所を設置した。禁門の変では幕府から出兵を命じられるも当初は消極的な態度を示したが、勅命が下されるや薩摩藩兵を率いて幕府側の勝利に貢献した。戦後、長州藩から奪取した兵糧米を戦災で苦しんだ京都の人々に配った。第一次長州征討では長州藩の謝罪降伏に尽力している。
在京中は土佐藩脱藩浪士の坂本龍馬と昵懇となり、亀山社中(のちの海援隊)設立を援助したりその妻であるお龍の世話をしている。長州の井上馨伊藤博文を長崎の薩摩藩邸にかくまってグラバーと引き合わせ、その後、井上を伴って鹿児島へ行き薩長同盟の交渉を行った。 尚、薩長同盟における密約や桂小五郎が滞在したのも京都における清廉の屋敷であったと伝えられる。
イギリスと薩摩の友好に尽力し、五代友厚らを密かにイギリスへ留学させた。また英国公使パークスを薩摩に招き、島津久光と引き合わせた。兵庫が開港されると、大和交易コンパニーという株式会社を設立して貿易拡大にも努めた。第二次長州征伐には反対し、慶応3年(1867年)の薩土盟約や四侯会議など、諸藩との交渉に関与した。討幕の密勅では請書に、西郷隆盛大久保利通とともに署名している。大政奉還発表の際は藩代表として徳川慶喜に将軍辞職を献策し、摂政二条斉敬大政奉還の上奏を受理するよう迫った。西郷・大久保とともに薩摩に戻って藩主島津忠義の率兵上洛を主張する。上洛の随行が命じられるも、病によりこれを断念している。明治2年(1869年)9月、明治維新の功により賞典禄1000石が授けられる。
新政府においては、総裁局顧問、徴士参与や外国事務掛、外国官副知官事、玄蕃頭などの要職を歴任した。フランスが、江戸幕府の借金を新政府が返済しないなら横須賀造船所を差し押さえると主張した際、清廉と大隈重信はイギリスから資金を借りてフランスに返済して窮地を脱している。他にも堺事件や浦上四番崩れの交渉を行った。またグラバーや五代友厚とともに、日本初の西洋式ドックを備えた小菅修船場を建設した。明治2年(1869年)、病気により依願退職版籍奉還では、久光を説得し率先して自らの領地を返上して範を示した。
明治3年(1870年)に36歳の若さで大阪にて病死し、最期は妾の琴(琴仙子)が看取った。墓地は鹿児島県日置市日吉支所(旧日吉町役場)の南1キロの祢寝家・小松両家歴代墓所

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『世界危機をチャンスに変えた幕末維新の知恵』 原口泉著 PHP新書 2009年発行
第2章 小松帯刀(こまつたてわき)が坂本龍馬に託した世界進出 (一部抜粋しています)
斉彬の意志を継いだ経済通家老小松帯刀
島津斉彬の意志を最大限に継いだ人物が、薩摩藩家老小松帯刀(清廉)でした。
小松帯刀は、大河ドラマ篤姫』が放送されるまで、一般にはほとんどその名を知られませんでした。しかし私は、帯刀こそ今の日本において、もっとも知られなければならない人物の1人だと思い、『龍馬を超えた男、小松帯刀』(グラフ社)を執筆しました。
帯刀とは、一言でいえば、幕末を動かした最大のキーマンの1人です。その能力を最初に見出したのが、島津斉彬だったのです。
斉彬と帯刀の接点は、安静2年(1855)、帯刀が20歳、まだ肝付尚五郎であったとき、江戸詰めを命じられたことに始まります。このとき帯刀は、参勤交代で江戸に滞在していた藩主斉彬に仕え、薫陶をうけたのです。
列強の植民地化を防ぐため富国強兵政策が必要なこと、あるいは、外貨獲得のための殖産興業の重要性を、帯刀は斉彬の藩政から学びました。
そして斉彬亡きあと、その異母弟久光に帯刀は高く評価され、27歳の若さながら家老に昇格させられたのです。そればかりか、軍事・財政・教育などの重要な分野の長を兼任するようになっていきます。
活躍の場がどんどん広がっていくなかで、帯刀は斉彬の考え方や価値観を忠実に継承しようと尽力します。年代不順ながら記してみましよう。
(1)斉彬の遺志を継ぎ、薩摩藩の近代工業導入に尽力
(2)薩英戦争における善戦、すばらしい戦後処理
(3)勝海舟軍艦奉行罷免に際し、龍馬ら神戸海軍操練所塾生30名を保護
(4)洋学校である開成所を設置
(5)英国留学生を派遣
(6)英国公使パークスを招聘
(7)大和交易コンパニーを設立
(8)パリ万博への薩摩藩独自参加を推進
(9)明治新政府の「外務大臣」として神戸事件・堺事件を解決
(10)禁門の変の先頭に立ち、勝利へと導く
(11)薩長同盟を主導
(12)薩土盟約を主導
(13)二条城大会議で徳川慶喜大政奉還を決意させる
このうち、(1)〜(9)までのじつに9つの功績が、経済・通商に関連したことがらであることは注目に値します。
軍事力を高めるにも、工業化を図るにも、資金が必要なことはいうまでもありません。おそらくそのあたりのことも斉彬から学んだのでしょう。
帯刀は経済活動や商社活動を重視し、それらを通して莫大な資金を集めることに成功しています。つまり、帯刀は類まれな経済通だったといえます。帯刀が集めた資金は、薩摩藩の富国強兵・殖産興業の発展、さらには倒幕の資金となっていったのです。
仏蘭からの借金を帳消しにした帯刀の交渉力
帯刀は明治になっても、明治2年(1869)に病気で引退するまでの短いあいだ、新政府で、徴士参与や外国事務掛、総裁局顧問、玄蕃頭(外務大臣)などの要職を歴任し、手腕を発揮しました。
なかでも特筆すべきは、外債の整理です。江戸幕府は武器などを購入するために、横須賀の鉄工所を担保に、フランスから多額の借金をしていました。またオランダからも借金をして、長崎飽之浦に鉄工所を建設していたのです。
その江戸幕府が解体したため、フランスもオランダも借金返済を主張しました。フランスなどは、明治新政府が借金を返さないなら横須賀造船所を差しおさえるといってきたのです。
困り果てた政府は、慶応4年(1868)5月、帯刀を急遽、関東に赴任させました。大藩の財政を担ってきた帯刀以外に、その難題を解決できる人間はいないと、能力を買ってのことです。
その期待に応えて、帯刀はイギリス公使を通してイギリス・オリエンタル銀行から資金を借り、その資金によってフランからの借金を帳消しにしてもらう交渉を成功させたのです。そればかりか、イギリスに武器類の購入資金も出資させました。帯刀は軍事品をイギリスから購入することを約束し、カネを出させることに成功したのです。
オランダからの借金については、あらためて返済契約を結び、長期間にわたる代わりに確実に返済する旨を示して、解決することができました。
こうした帯刀の交渉力は、仲介力ともいいかえることができるかもしれません。
帯刀は、龍馬や西郷、大久保といった維新の原動力たる人々に活躍の場を与えましたが当時の家格制度を思えば、帯刀が西郷らとつきあいをもつこと自体、考えられないことでした。帯刀は薩摩藩吉利郷の「一所持」、つまり藩内最上級の門閥出身で、西郷らはいずれも下級武士です。
家格が重んじられる時代にあって、いくら志が高くても、身分が低ければ、政(まつりごと)に口をはさむことなどできません。また、身分の高い者は下級武士を見くだしていました。ところが帯刀は西郷らに偏見をもたず、彼らが叫ぶ反幕運動にも耳を傾けたのです。そして、国父島津久光と下級武士とのあいだに立ち、両者を取りもつ役を担いました。
また、倒幕勢力でありながら徳川慶喜とも通じていた点からしても、帯刀の交渉力・仲介力の高さがうかがいしれます。
薩長の談合場所に京都の小松邸をたびたび提供し、薩長同盟を実現させる反面、帯刀は慶喜の説得に成功し、大政奉還の受け入れを承諾させたのです。
目的を達成するためには手段を選ばないという人もいますが、帯刀はそういう人間ではありませんでした。日本の行く末を案じ、新しいよき国をつくることが目的とするなら、血で血を洗う戦や身分の高い者だけを重用するという手段では、その目的は達成できないと考えたのかもしれません。
尊王・佐幕の壁を超え、「小松なくば何もできぬ」といわしめた帯刀の人格は、明治天皇も認めるところでした。帯刀が病気で引退したのち、天皇は見まい品を届けさせています。

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