じじぃの「人の死にざま_148_聖徳」

歴史秘話ヒストリア 「みんなでいい国にしよう〜プリンス聖徳太子・ニッポン補完計画」  2011年7月13日 NHK
【キャスター】渡邊あゆみ
日本でも一二を争う有名人・聖徳太子。太子の「早起き」政治改革に、意外な元祖伝説。聖徳太子のお札誕生にまつわる秘話もご紹介!伝説のプリンスがニッポンを救う!!
http://www.nhk.or.jp/historia/backnumber/95.html
ライバル日本史 日出ずる小国 大帝国を挑発す〜聖徳太子と隋の煬帝 1995年11月9日 NHK
【主な出演者】梅原猛小倉和夫 【キャスター】三宅民夫 【語り】小川真司
聖徳太子が隋に送った国書は皇帝の煬帝を激怒させたが、太子の大胆な行動の裏には周到な計算があった。そのかけひきに、現代に通じる外交のあり方を探る。
http://archives.nhk.or.jp/chronicle/B10001200999511090130184/
十七条憲法 ウィキペディアWikipedia)より
【成立】
十七条憲法は720年に成立した『日本書紀』に全文が引用されているものが初出であり、これを遡る原本も、写本も現存しない。推古天皇12年(604年)に成立したというのは『日本書紀』、『先代旧事本紀』の記述を信じるほかはない。(『上宮聖徳法王帝説』によれば、少治田天皇御世乙丑年(605年)。『一心戒文』によれば602年。)
近代歴史学の誕生とともに、十七条憲法には疑いも掛けられており、成立時期や作者については議論がある。
津田左右吉は、1930年の『日本上代史研究』において、十七条憲法に登場する「国司国造」という言葉や書かれている内容は推古朝当時の政治体制と合わず、後世すなわち『日本書紀』編纂ごろに作成されたものであろうとした。
坂本太郎は、1979年の『聖徳太子』において、「国司」は推古朝当時に存在したと見てもよく、律令制以前であっても官制的なものはある程度存在したから、『日本書紀』の記述を肯定できるとした。
・森博達は「1999年の『日本書紀の謎を解く』において、十七条憲法の漢文の日本的特徴(和習)から7世紀とは考えられず、『日本書紀』編纂とともに創作されたもの」とした。
【(日本書紀に記載されている)漢文の書き下し文】
夏四月の丙寅の朔戊辰の日に、皇太子、親ら肇めて憲法十七條(いつくしきのりとをあまりななをち)作る。
一に曰く、和(やわらぎ)を以(もち)て貴(たふと)しと為し(なし)、忤(さか)ふること無きを宗とせよ。人皆党有り、(略)
二に曰く、篤(あつ)く三宝を敬へ。三宝はとは仏(ほとけ)・法(のり)・僧(ほうし)なり。則ち四生の終帰、万国の禁宗なり。はなはだ悪しきもの少なし。よく教えうるをもって従う。それ三宝に帰りまつらずば、何をもってか柱かる直さん。
三に曰く、詔を承りては必ず謹(つつし)め、君をば天(あめ)とす、臣をば地(つち)とす。天覆い、地載せて、四の時順り行き、万気通ずるを得るなり。地天を覆わんと欲せば、則ち壊るることを致さんのみ。こころもって君言えば臣承(うけたま)わり、上行けば下…(略)
四に曰く、群臣百寮、礼を以て本とせよ。其れ民を治むるが本、必ず礼にあり。上礼なきときは、下斉(ととのは)ず。下礼無きときは、必ず罪有り。ここをもって群臣礼あれば位次乱れず、百姓礼あれば、国家自(みず)から治まる。
五に曰く、饗を絶ち欲することを棄て、明に訴訟を弁(さだ)めよ。(略)
六に曰く、悪しきを懲らし善(ほまれ)を勧むるは、古の良き典(のり)なり。(略)
七に曰く、人各(おのおの)任(よさ)有り。(略)
八に曰く、群卿百寮、早朝晏(おそく)退でよ。(略)
九に曰く、信は是義の本なり。(略)
十に曰く、忿(こころのいかり)を絶ちて、瞋(おもてのいかり)を棄(す)て、人の違うことを怒らざれ。人皆心あり。心おのおのの執れることあり。かれ是とすれば、われ非とす。われ是とすれば、かれ非とす。われ必ずしも聖にあらず。(略)
十一に曰く、功と過(あやまち)を明らかに察(み)て、賞罰を必ず当てよ。(略)
十二に曰く、国司(くにのみこともち)・国造(くにのみやつこ)、百姓(おおみたから)に収斂()することなかれ。国に二君非(な)く、民に両主無し、率土(くにのうち)の兆民(おおみたから)、王(きみ)を以て主と為す。(略)
十三に曰く、諸の官に任せる者は、同じく職掌を知れ。(略)
十四に曰く、群臣百寮、嫉み妬むこと有ること無かれ。(略)
十五に曰く、私を背きて公に向くは、是臣が道なり。(略)
十六に曰く、民を使うに時を以てするは、古の良き典なり。(略)
十七に曰く、夫れ事独り断むべからず。必ず衆(もろもろ)とともに宜しく論(あげつら)ふべし。(略)
             『日本書紀』第二十二巻 豊御食炊屋姫天皇 推古天皇十二年

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【お札よもやま話】
戦前にお札に使われていた肖像は、戦後、連合軍最高司令部(GHQ)の命令により使用を禁止されていたのですが、当時の一萬田(いちまだ)日銀総裁が「聖徳太子は『和を以って貴しと為す』と説いた平和主義者である」と主張したことが受け入れられ、聖徳太子だけは戦後もお札に登場することになりました。このため、「お札といえば聖徳太子」と言えるほど国民に親しまれました。

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『世界に誇れる日本人』 【著】渡部昇一 PHP文庫 2007年出版 (一部抜粋しています)
十七条憲法モーゼの十戒のようなもの
聖徳太子がのこされたものとして、十七条憲法もある。これももちろん重要である。
十七条憲法は非常に融和的で、1つのイデオロギーで押していくところがない。「仏教を重んじよ」というけれども、別に宗教改革をやるわけではなく、神様をなくせという意味は全くない。神様のことは当然の当然としている。
また、イデオロギーに基づかず、法律のもとになるような思想をのべた憲法という意味で、聖徳太子の十七条憲法憲法らしい憲法といえるだろう。
細かいことを規定するのが法律である。だから、どんな小さな法律でも長くなる。現在の税法だけでも、本として重ねると大人の身長の半分ぐらいある。その法律のもとになる理念、考え方を憲法という。極端なことをいえば、それはモーゼの十戒のようなものである。モーゼの十戒に基づいて細かい規則や法律を作り得る。この「法の精神を示す」という点で、聖徳太子の十七条憲法は本質的な意味における憲法の性格を持っている。
そして、その聖徳太子の考え方は日本人に染み渡っている。聖徳太子についてはいろいろなことが指摘されているが、日本人のメンタリティーや生き方の面で潜在意識にまで入り込む基礎を作られたことを評価すべきだろう。たとえば「和を以て貴(たっと)しとなす」は実践的な発想法として日本人の常識のようになっている。喧嘩がいいということは絶対にいえない。そういう規範を宗教と言う形を取らず、憲法で作ったというところが偉い。仏教の五戒など、宗教には規範がいろいろとあるが、それと法律の中間に来るものが憲法だと思う。
ちなみに、後に武家が家訓を作る時、百条というようなまとまりがいい数字以外は、聖徳太子憲法の倍数でまとめた場合が多い。半端な数があるのはだいたい十七で割ると割り切れる例が多いのだ。このあたりにも聖徳太子の後世への影響をうかがうことができる。朝倉孝景(敏景)の家訓のように「十七箇条」と同じ数にした武将もある。

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『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
聖徳太子 (574-622) 48歳で死亡。 (一部抜粋しています)
推古29年12月に、太子の母が死に、翌推古30年正月、太子も病み、さらにその看病にあたっていた膳妃(かしわでひめ)も病んで、2月11日その妃のほうが先に死に、翌22日に太子も歿した。この相つぐ死は何か急性の伝染病によるものと思われるが、たしかなことは不明である。
不明といえば、太子の行蹟そのものがすべて伝説の煙につつまれていて、礼の「十七条憲法」や「日出づるところの天子」云々の国書をはじめ不確かなことが多い。紙幣の肖像もあてにならないといわれる。しかし、当時一世から讃仰(さんぎょう)された賢明な太子であったことはまちがいないらしい。

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みんなの感想文 梅原 猛「隠された十字架 〜法隆寺論〜」コナベさん
隠された十字架 〜法隆寺論〜 著者 梅原猛
最近読んだ本
門を閉ざしてしまうかのように立つ柱、1200年の間秘仏とされ続けた救世観音・・・。日本が世界に誇る法隆寺に秘められた謎を追った著者が見た物、それは他ならぬ聖徳太子の怨霊の姿・・・!という何ともショッキングな内容の研究本です。  
自分は意外と祟りとか怨念という存在を信じてしまうほうで、名高い法隆寺が実は日本史上最大級の偉人、聖徳太子の怨念を封じ込めた鎮魂の寺であるという著者の説にとても興味が沸いていました。
http://www.geocities.jp/okigarumororin/kakusaretajyuujikakonabe.html