じじぃの「人の死にざま_146_西郷」

西郷隆盛 - あのひと検索 SPYSEE
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西郷隆盛 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
西郷隆盛は、日本の武士(薩摩藩)、軍人、政治家。
薩摩藩の盟友大久保利通長州藩木戸孝允桂小五郎)と並び、「維新の三傑」と称される。
【人物】
西郷吉兵衛隆盛の長子。名(諱)は元服時には隆永(たかなが)、のちに武雄、隆盛(たかもり)と改めた。幼名は小吉、通称は吉之介、善兵衛、吉之助と順次変えた。号は南洲(なんしゅう)。隆盛は父と同名であるが、これは王政復古の章典で位階を授けられる際に親友の吉井友実が誤って父吉兵衛の名を届けたため、それ以後は父の名を名乗ったからである。一時、西郷三助・菊池源吾・大島三右衛門などの変名も名乗った、本名は8代目西郷吉兵衛隆永と言う。
西郷家の初代は熊本から鹿児島に移り、鹿児島へ来てからの7代目が父吉兵衛隆盛、8代目が吉之助隆盛である。次弟は戊辰戦争北越戦争新潟県長岡市)で戦死した西郷吉二郎(隆廣)、三弟は明治政府の重鎮西郷従道(通称は信吾、号は竜庵)、四弟は西南戦争で戦死した西郷小兵衛(隆雄、隆武)。大山巌(弥助)は従弟、川村純義(与十郎)も親戚である。
薩摩藩の下級武士であったが、藩主の島津斉彬の目にとまり抜擢され、当代一の開明派大名であった斉彬の身近にあって、強い影響を受けた。斉彬の急死で失脚し、奄美大島に流される。復帰するが、新藩主の実父で事実上の藩主の島津久光と折り合わず、再び、沖永良部島流罪にあう。しかし、家老小松清廉(帯刀)や大久保の後押しで復帰し、元治元年(1864年)の禁門の変以降に活躍し、薩長同盟の成立や王政復古に成功し、戊辰戦争を巧みに主導した。勝海舟との降伏交渉に当たっては、新政府の後ろ盾となっていたイギリスが、江戸湾を拠点とした貿易に支障がでることを恐れて江戸総攻撃に反対したため、西郷隆盛をはじめとする新政府はイギリスの求めに応じ、江戸総攻撃を中止した(江戸無血開城)。
その後、薩摩へ帰郷したが、明治4年1871年)に参議として新政府に復職。さらにその後には陸軍大将・近衛都督を兼務し、大久保、木戸ら岩倉使節団の外遊中には留守政府を主導した。朝鮮との国交回復問題では朝鮮開国を勧める遣韓使節として自らが朝鮮に赴くことを提案し、一旦大使に任命されたが、帰国した大久保らと対立する。明治6年1873年)の政変で江藤新平板垣退助らとともに下野、再び鹿児島に戻り、私学校で教育に専念する。佐賀の乱神風連の乱秋月の乱萩の乱など士族の反乱が続く中で、明治10年(1877年)に私学校生徒の暴動から起こった西南戦争の指導者となるが、敗れて城山で自刃した。

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文藝春秋 10月号
司馬遼太郎が愛した日本人 大座談会 (一部抜粋しています)
【対談者】昭和史家・作家 半藤一利茨城大学准教授 磯田道史東京大学教授 山内昌之、作家 水木楊
西郷は「日本最高の傑作」
半藤 幕末から明治のリーダーといえば、どうしても西郷隆盛大久保利通の2人がまず挙げられるでしょう。では、この2人を司馬さんが愛していたか、というと、なかなか難しい。 司馬さんは、西郷のことを「日本最高の傑作」と呼んでいるほどですから、リーダーとしても人格的にも高く評価していたことは間違いありません。しかし、十分に掴まえ得たという実感をもてたかどうか。
水木 征韓論論争で敗れた西郷さんが西南戦争で敗死するまでを描いた『翔ぶが如く』は、執筆に非常に難渋したそうですね。書き終えてからも、主人公の西郷を十分に書けなかったと漏らしています。
磯田 司馬さんはあるところで、こう言っています。江戸時代の武士の精神を蒸留して作った大きいほうの雫が西郷で、小さなほうが乃木だ、と。だから、素にして純なるもの、侍が持っていた潔さ、生真面目さが、時代とのかかわりのなかで、名状しがたい巨大さであらわれたのが西郷であり、明治後期、20世紀初頭という時代とも、圧倒的な近代兵器の威力が生死を決する日露戦争という状況とも合わない形で発露してしまったのが乃木だった、といえる。 この素純という価値観をつきつめると、無私の精神ということになると思います。しかし、一方で、己を無にするということが、松陰にしても西郷にしても、ある意味では自滅とも呼べるような死につながっていき、昭和においては国家の破滅をも招いてしまった、という認識が、司馬さんにはあったのだと思います。それが西郷という人物に関する評価の揺れにつながっているのではないでしょうか。

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『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
西郷隆盛 (1827-1877) 50歳で死亡。 (一部抜粋しています)
明治10年9月24日午前4時、夜明け前から城山に対して官軍の総攻撃が始まった。
午前7時ごろ、西郷は、幹部の桐野利秋村田新八別府晋介らとともに洞窟を出て、雨飛する弾丸の中を岩崎谷へ向かった。
倒れ伏す味方を見て、辺見十郎太が、
「もう、ゆは、ごわんすめいか」(もういいのじゃありませんか)
といったが、西郷は「まだまだ」と首をふって歩きつづけた。しかし、100メートルばかり歩いたところで、弾丸飛びきたって西郷の股部と腹部に命中し、彼は倒れた。そこで、はじめて、
「晋どん、晋どん、もうここらでよかろう」
と声をかけ、地上に座し、東天を拝んだ。負傷のため輿(こし)に乗っていた別府晋介は輿から下り、
「そうじごわんすかい」(そうでありますか)
と、うなずき、白刃を抜き払って、
「ごめんなったもんし」(お許し下され)
と、さけんで、西郷の首をはねた。
それから、西郷の従僕にその首を埋めることを命じ、生き残った連中は岩崎谷に達し、官軍の集中射撃の中に全滅した。そのあと、豪雨が一洗した。
しかし、西郷の首は間もなく発見され、兵士の飲料用の桶の水で洗って、参軍の山県有朋のもとへとどけると、山県はそこに直立したまま、何とも名状しがたい表情で見つめていたが、「この髯は2日前に剃(そ)ったくらいだろう」と、その髯をなでて落涙した。山県は歌った。
「山もさけ海もあせんとみし空の
 なごりやいずら秋の夜の月」
西郷の埋められた浄光明寺の墓はたちまち市民の運ぶ花で埋まり、そのころ夜な夜な空にかかっていた赤い火星は西郷星と呼ばれた。
そしてその後も、西郷が生きていてフィリピン独立運動に加わっているとか、ロシアに逃れて日本政府討伐の機を待っているとかいう「英雄伝説」は長く執拗に民衆の間に残った。
ところで、この最後の日の2日前に、薩軍は西郷了解の下に、官軍に降伏打診の死者を送り、官軍から一蹴されたという奇怪な事実がある。徳富蘇峰も「此(こ)の最後に際して、此(かく)の如き使者を発遣したることは、返すがえすも遺憾であった」といいっている。
人は最後の関頭に当って、突如として敵が寛大であり得るような妄想を抱くことがある。大西郷にしてもなおこのような妄想にとらえられたのであろうか。

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西郷隆盛
http://www.geocities.jp/bane2161/saigoutakamori.html
【次代への名言】9月24日・西郷隆盛 2009.9.24
「総て人は人を相手にする為、過(あやまち)も改め兼ぬるなり。天を相手にすべし」西郷隆盛
西南戦争の開始から7ヵ月余。明治10(1877)年のきょう、鹿児島・旧城下の一隅。維新の雄、西郷隆盛が、付き従っていた別府晋介介錯(かいしゃく)で、散った。宮城の方角である東に向かって正座し、「晋どん、もうこのへんでよかろう」と言って首をさしのべた、という。
「唯(ただ)国難に斃(たお)るるのみ」。身を捨てて国に尽くすことが所信だったはずの西郷が「政府へ尋問の筋これあり」として挙兵し、最大の国難を引き起こした。西郷の暗殺が企てられ、盟友の内務卿、大久保利通まで関与しているのではないか−というのが「尋問の筋」だった。
冒頭のことばを残した西郷である。天と相談し、この挙には大義名分がないという「過」を承知していたことだろう。事実、萩や熊本で起きた過去の士族の反乱を聞き、「好機会」と呼応しようとする門人を西郷は「何の意ぞ」と厳しくはねつけている。なのに、なぜ…。
理想の政府をつくるためだった。しかし、そんな政府など西郷の心の中だけで現実にはありえない。なのに、賽(さい)の河原の子供が、くずされてもくずされても小石を積み上げたように、その理想を追おうとする。最も悲劇的な英雄であろう−。海音寺潮五郎の西郷評である。
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/090924/acd0909240305001-n1.htm