じじぃの「未解決ファイル_56_余生」

片岡 一則 - FIRSTサイエンスフォーラム
東京大学大学院教授 片岡一則
すい臓がんは、生存率が非常に低く、難治がんとして知られています。
私たちは、合成高分子の分子集積技術によって精密に粒径制御したナノカプセルがすい臓がんに効果的に集積し、搭載した抗がん剤の有効性を飛躍的に高めることを明らかにしました。ナノカプセルはすい臓がんの画期的な治療薬をもたらすことが期待されます。
http://first-pg.jp/about-us/kataoka-kazunori.html
NEWSアンサー 「がん治療最前線 “動く患部”も狙い撃つ!」 (追加) 2013年11月7日 テレビ東京
【キャスター】大浜平八郎、倉野麻里
●ナノカプセル投薬
最新の治療法では「がん」だけをピンポイントで狙い撃ちすることができるようになっています。
抗がん剤を微小カプセルに包んでがんの患部に届ける薬の送達システムの最新研究を伝えます。
数年後の実用化を目指し、乳がんやすい臓がんなどの抗がん剤で治験が進められています。
がん細胞を狙い打つピンポイント治療は、より多くの人の患者さんを救うことになりそうです。
http://www.tv-tokyo.co.jp/mv/newsanswer/life/post_53676
分子標的治療 ウィキペディアWikipedia)より
【がん治療における従来の抗がん剤との違い】
従来の抗がん剤(殺細胞性抗がん剤)が細胞傷害を狙うのに対し、分子標的治療薬は多くが細胞増殖に関わる分子を阻害する(そのため臨床応用される以前は分子標的治療は腫瘍を縮小させず、増大を抑えるのみであると考えられていた)。またがん細胞特異的に効果を示す(ことが期待できる)ため至適投与量は最大耐用量ではなく、最小有効量でありまた最大耐容量と最小有効量の差が大きい可能性があり、そのため毒性のプロファイルが異なることが期待される。
しかし、実際に分子標的治療が広く行われるようになると分子標的治療薬は腫瘍縮小効果を示し、それもゲフィチニブの標的分子である変異EGFRのように当初想定していなかった未知の分子が標的となり臨床効果を示す可能性がでてきた。毒性に関しても間質性肺炎のように想定していなかった致死的毒性が出る可能性があり、一概に毒性が少ないとは言えないことが判明した。

                                  • -

NHKスペシャル立花隆 思索ドキュメント がん 生と死の謎に挑む」 2009年11月23日
ジャーナリストの立花隆氏は、一昨年、膀胱がんの手術を受けた。NHKは手術の様子や、その後の治療の過程を長期に渡って映像に記録してきた。その中で、立花氏は本質的な疑問に向き合い始めた。「人類はなぜ、がんという病を克服できないのか?」。
立花氏は今、世界中の最前線の研究者たちを取材する中で、がんの正体を根源的な部分から見つめなおそうとしている。明らかになってきたのは、がんという病が、生命誕生の謎と深く結びついているという神秘的な事実だ。
例えば、がんの原因とされている「がん遺伝子」は、同時に、生命の誕生から成長に至るまでに不可欠な遺伝子でもあることがわかってきた。さらに、がん細胞は生命40億年の進化の果てに得た様々な細胞の仕組みを利用して、増殖し転移することも明らかになりつつある。
がんは、小さなほ乳類から恐竜まで、あらゆる生物に見つかる。実はがんは、私たちが多細胞生物として生まれたことで決定づけられた、宿命なのではないか。だとすれば、私たち人類は、がんとどのように向き合えばいいのか。
ジャーナリストとして、そして一人のがん患者として、人類最大の病、がんの謎に挑む立花氏の思索の旅を追いながら、私たちとがんとの新たな向き合い方を探る。
http://www.nhk.or.jp/special/onair/091123.html
『わたし、ガンです ある精神科医の耐病記』 頼藤和寛 文藝春秋 2001年出版 (一部抜粋しています)
本来、ガン治療の効果というのはQOL(生活の質)と生存期間の積で評価されるべきものである。本人が生きるに値すると感じられる生活(つまり質)を、少しでも長く維持すること(つまり量)という両方が大切なのは当然だろう。この質と量をかけ算した積が大きくならなければ意味がないわけで、片方がゼロに近づくようなら積も小さくなってしまう。しかるに医者や研究者は測定しやすい「量」、たとえば腫瘍の直径や延命期間だけで治療効果を評価しようとする。なんといっても彼ら自身はガンという病気を生きているわけではない。他人事なら、寝たきりで何もできず呻吟していても3年生きたケースのほうが、1年間は1人前に活動して現世でし残したことを済ませたあと倒れ、その後3月ほどで急逝したケースより「治療はうまくいった」ことにおいても差し支えない。あるいは、抗ガン剤や放射線の副作用で苦しんでいても病巣が何センチか縮小すれば有効で、ふつうに生活できても腫瘤の大きさに変化がなければ無効なのである。この程度の差がたくさんのケースで確認できれば、画期的な治療効果として科学的に証明されたことになってしまう(実際には、もっと僅かな差であっても標本数が多ければ統計的に有効であると「実証」されるのだが)。しかし、長く苦しんで何もできず無理に引き延ばされただけの余生のほうが、やるべきことを手早くやってさっさと退場してしまう短命な余生より価値があるとなどと、誰が決めたのか。誰が決められるのか。おそらく本人意外にそれを決める権利のある人間などおるまい。「細く長く」か「太く短く」かぐらいは本人に選択させるべきである。

                                  • -

どうでもいい、じじぃの日記。
11/23、NHKスペシャル立花隆 思索ドキュメント がん 生と死の謎に挑む」を観た。
がん研究の最前線をがん患者である立花隆さん自身が取材したドキュメンタリー番組である。
番組の最後に
「もし、自身の膀胱がんが転移するようなことがあれば私はそれを受け入れる。QOLを落としてまで、抗がん剤治療を行うつもりはない」
と言っていた。
現代の医学ではまだ、がんが転移した場合、抗がん剤で治療した場合と抗がん剤で治療しない場合の生存期間を比べたとき、ほとんど差がないのである。
抗がん剤を投与した場合、がんだけを標的にした分子標的治療薬というのがある。しかし、正常な細胞をまったく傷つけないというわけではないのだ。
今まで、2〜3年長く生きようが、1年後に死のうが、60歳も過ぎたら、じたばたしてもしょうがないと思っていた。
枯葉が木から落ちる場合、風の無い状態でひらひら落ちても、風のいきおいで落ちたとして大して違いがないのである。
2日前朝、散歩したとき地面が凍っていて滑って転んでしまった。
痛かった。じじぃでも痛いのである。
大腸がんで亡くなった頼藤和寛さんの本『わたし、ガンです ある精神科医の耐病記』の中に
余生を「細く長く」生きるか、「太く短く」生きるか
というのがある。
じじぃには「細く長く」か、「太く短く」での選択はどうでもよくて、痛い痛いで死ぬのだけはいやだと思うようになった。
たかが、ちょっと転んだだけの話で。