じじぃの「人の死にざま_141_ロダン」

オーギュスト・ロダン - あのひと検索 SPYSEE
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Rodin Sculpture 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=FCYjSYfH5zI
地獄の門 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
地獄の門叙事詩に登場する内容、及びそれをテーマにして制作されたブロンズ像である。
叙事詩
13-14世紀イタリアの詩人、ダンテ・アリギエーリの叙事詩神曲』地獄篇第3歌に登場する地獄への入口の門である。
「この門をくぐる者は一切の希望を捨てよ」の銘文でよく知られており、深い絶望をあらわす表現としても用いられる。

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プレミアム8<文化・芸術>シリーズ巨匠たちの肖像「ロダン あくなき生命への欲望」 2009年12月8日 NHK HI
人物のいのちあふれる姿や内面まで表現し、「近代彫刻の父」と呼ばれたオーギュスト・ロダンそこには、ロダンの優秀な弟子にして愛人だった、カミーユ・クローデルとの出会いや官能への目覚めが大きくかかわっていた。愛や苦悩まで、すべてを飲み込み、生涯のテーマ“生命”を追い求めたロダンの執念を、代表作地獄の門カレーの市民などの最新研究から浮き彫りにする。
http://archives.nhk.or.jp/chronicle/B10002200090905130030177/
『雑学大王385 身の回りの「謎」がわかる!』 日本雑学研究会 2008年発行
ロダンの「考える人」に隠された謎
フランスの彫刻家、ロダンの作品に「考える人」という有名なものがある。この像の人物は裸で、洋式のトイレに座っているかのようなポーズをしているが、いったい何を考えているのか。
ロダンの「考える人」は、もともと「地獄の門」という作品の一部である。パリに装飾美術館が建設されることになり、その門扉といて、「地獄の門」が創作された。
この門の中央上段に坐している裸の男の像を独立して取り出したのが「考える人」である。もともと裸の男の像には名前がなく、「考える人」と名付けたのは鋳造家のリディエである。
地獄の門」は文字どうり地獄の様子を表現したもので、火の海でうめき苦しんでいる人々の姿が描かれている。それを上から眺めている男の像が、すなわち「考える人」である。手をあごにかけて下を向いているのは、下のほう(地獄)をのぞきこんでいるからである。もとの作品(「地獄の門」)に則すれば、「考える人」は地獄について考えているということになるだろう。

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
ロダン (1840-1917) 77歳で死亡。 (一部抜粋しています)
40歳ごろまで職人仕事に埋もれていたオーギュスト・ロダンは、このころ以後、カレーの市民」「接吻」「バルザック」「地獄の門(例の「考える人」はこの中の群像の一つである)等の衝撃的作品で、フランスの誇る大彫刻家として、みるみる富と名声の世界に昇った。
前半生、社交的に不器用で、孤独で、寡黙な野人であったロダンも、晩年に近づくに従って、さまざまな勲章や名誉職につつまれ、日常生活においても取り巻くたちのお世話や色事に居心地よげにひたっている観があった。中年から彼は美と天才をかねそなえた女弟子カミーユ・クローデルを愛人とする。
しかし、70歳近いロダンを、1910年(明治43年)鴎外は『花子』で次のように描く。
オーギュスト・ロダンは為事場(しごとば)に出て来た。(中略)
いくつかの台の上に、いくつかの礬土(ばんど)の塊がある。また外の台の上にはごつごつした大理石の塊もある。日光の下に種々の植物が華(はな)咲くように、同時にいくつかの為事を始めて、かわるがわる気の向いたのに手を着ける習慣になっているので、いくつかの作品が後(おく)れたり先だったりして、この人の手の下に、自然のように生長して行くのである。この人は恐るべき形の記憶を有している。その作品は手を動さない間にも生長しているのである。この人は恐るべき意志の集中力を有している。為事に掛かった刹那(せつな)に、もう数時間前から為事をし続けているような態度になることが出来るのである」
花子は1906年ロダンが66歳のとき彼の前に現われた日本の踊り子で、以後彼はいくつかの花子の彫刻を生む。
ロダンは72歳のとき脳溢血のため、半身不随となった。76歳のときまた再発作を起こした。
彼はしかしそれ以後も何かを描こうとしたが、人々は彼からペンも鉛筆もとりあげた。かれが尿名遺言状を書きはしないかと怖れたのである。
ロダンには、晴れが20代半ばから事実上の妻としていっしょに暮らしていた農民出身の女ローズがあった。2人の間には少し知能の足りなりオーギュスト・グレという息子もあった。ロダンは晩年まで、この妻を世間の眼からかくそうとした。
1917年、彼はやっとこの糟糠(そうそう)のローズを正式の妻として結婚式をあげた。その15日後、73歳のローズは安らかに世を去った。
結局ロダンに捨てられたカミーユは発狂して1913年以来精神病院にいれられていた。彼女の弟、詩人ポール・クローデルは、のちに駐日大使となる。
その年の11月12日、ロダンは高熱を発し、医者は肺充血(肺炎)と診断した。17日午前4時、彼は臨終のときを迎えた。

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