じじぃの「人の生きざま_14_永・六輔」

永六輔 - あのひと検索 SPYSEE
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永六輔のガールフレンド黒柳徹子

黒柳徹子永六輔さん「ありがとう」 『徹子の部屋』急きょ追悼番組に変更 2016-07-11 ORICON STYLE
タレントの永六輔さん(享年83)の訃報を受け、長年親交があった黒柳徹子(82)が11日、コメントを発表した。
 また、あす12日放送のテレビ朝日徹子の部屋』(月〜金 正午)は、番組最多タイとなる39回出演した永さんの追悼番組として放送。14年半前に亡くなった愛妻・昌子さんとの夫婦秘話や、娘との心温まる書簡など、親交の深い2人だからこそ聞けた名場面を集め追悼する。
http://www.oricon.co.jp/news/2074894/full/
徹子の部屋 「永六輔 現役続行の勇気をくれた盟友の激励」 2013年3月21日 テレビ朝日
現在パーキンソン病を患いながらも精力的にラジオ番組や講演活動を続ける永六輔さんを迎える。懸命にリハビリをこなして病気と闘う日々のエピソードを明かして黒柳を笑わせる。永さんと黒柳の出会いは今から60年ほど前に遡る。今日は2人に共通する盟友たちの秘話が次々と。渥美清さん、小沢昭一さん、井上ひさしさん等の素晴らしい人柄が浮き彫りに…。
☆本
永六輔のお話し供養」 小学館
「無名人のひとりごと」 (株)金曜日
http://www.tv-asahi.co.jp/tetsuko/html/130321.html
永六輔 ウィキペディアWikipedia)より
永六輔(1933年4月10日 - )は日本の元放送作家で、タレント、作詞家、エッセイストの76歳。本名は永孝雄(えいたかお)。角刈り頭と細長い顔、大らかな表情がトレードマーク。血液型はAB型。映画エッセイストの永千絵は長女、元フジテレビアナウンサー(現在はフリー)の永麻理は次女。従兄弟は東映の映画監督で『極道の妻たち』を撮っている現役監督とラジオで発言をした。
【略歴】
1933年(昭和8年)、代々「最尊寺」(東京・浅草)の住職を勤めていた永家の息子として生を受けた。江戸時代初期に渡来した中国の学僧を先祖に持つ在日外国人17代目と自称。父や祖父は永という姓を中国語読みで「ヨン」と名乗っていた。このため戦時中は「チャンコロ」「シナポコペン」と呼ばれ、いじめを受けた。東京・下谷区(現在の台東区)の国民学校に通っていた1944年(昭和19年)、学童疎開により長野県北佐久郡南大井村(現在の小諸市)の国民学校に転校し、そこで終戦を迎えた。
1946年に長野県立上田中学校(旧制)に入学するが翌年東京へ帰り早稲田中学校(旧制)に2年編入で転校。この間同校が学制改革により新制の早稲田中学校・高等学校となったため3年で高等学校に昇級進学して卒業する。ラジオに興味を持ち、焼け跡の金属を換金し秋葉原で部品を買い鉱石ラジオを組み立てるグループを作る。そのグループのリーダーが渥美清であった。
この頃からNHKのラジオ番組『日曜娯楽版』にネタを投稿するようになる。また、1948年から淀川長治が主催していた「東京映画友の会」の初期の参加メンバーであった。1952年に早稲田大学第二文学部へ入学。大学では民俗学者であった宮本常一の影響を受ける。在学中に三木鶏郎(『日曜娯楽版』の発案者)にスカウトされ、トリローグループのメンバーとして放送作家、司会者としてデビューする。早稲田大学第二文学部史学科を1954年に中退。
以後、ラジオ・テレビ番組の企画・演出や、ピアニストで作曲家の中村八大らと組んでの歌曲作詞、また軽妙な語り口を生かしたタレントとしての活動など、マルチプレイヤーとして活動を続けてきた。特にラジオパーソナリティーとしての知名度が高い。古今の芸人についての研究や、政府によるメートル法の厳しすぎる施行で過度に排除された尺貫法の復権を志す運動、佐渡島独立運動、「天皇陛下に公式の場で和服(着物)をおめしいただこう」という運動(「天皇に着物を!市民連合」略称「天着連」)など、ユニークな取り組みも多い。
【テレビ出演】
テレビ番組の出演は、テレビ朝日の『徹子の部屋』、よみうりテレビ『遠くへ行きたい』NHKの『視点・論点』、山梨放送の旅番組、朝日ニュースターの『痛快!おんな組』、そして不定期にあるドキュメンタリー番組の案内人しかテレビ出演をしないとされている(他にNHKの特別番組においてVTR出演することもある)。
かつてTBSテレビ放送40周年記念特別番組の際、タレントが永が行っていたラジオ番組紹介コーナーの進行を無断で遮ったことに憤慨し、生放送であるにも関わらず途中で退場したことがあり、これを境にテレビへの出演に消極的になったとされている(なお他のテレビ番組でも途中退場したことがある)。
『全国こども電話相談室』に回答者として出演した際、「どうやったらテレビに出られますか?」という質問に対し「出なくてもいい」という趣旨の答えを返し、「もっといろいろなものに興味を持ちなさい」と子供を諭した逸話がある。
永がラジオを主体に活動するようになったのは、元々テレビカメラに取り囲まれるのとドーランを塗って出るのを嫌がっていたのに加え、ちょうどテレビにワイドショーが登場し、その手法に早くから幻滅を覚えてしまったことが原因であるといえよう。しかし、テレビというメディア自体は否定しておらず、後に深夜番組『2×3が六輔』に出演して、自分の存在を確かめさせた(本人談)。また、上記の通り現在は殆どテレビに出ないにもかかわらず旅先で会った人から「いつもテレビで見てます」と声をかけられることはラジオやエッセイなどで度々ネタにしている。
【ラジオ出演】
それまで構成作家として関わってきたラジオ番組だが1959年放送開始の『昨日の続き』(ラジオ関東)にて初めて出演することとなる。この番組は当時としては珍しい台本無しのフリートークで進められる番組で1971年まで続いた。1966年に夢で逢いましょうが終了すると活躍の場をラジオに求め、翌年の1967年に『誰かとどこかで』がスタートする。それ以降は、ラジオに重きを置くようになっているが、TBSラジオ以外のラジオ局では定時番組での仕事をしたことがない。ちなみに、自身担当のラジオ番組では、番組挨拶をせずにオープニングトークに入る事が多い。
朝日放送中部日本放送琉球放送で仕事をしたことがあるが、個人的付き合いに留まっている(朝日放送道上洋三アナウンサーとの、中部日本放送つボイノリオとの親しい縁から、琉球放送は親交のあった灰谷健次郎が居を構えていた事から)。
余談だが、TBSラジオでかつて放送されていた『土曜ワイド』は久米宏が初めてレギュラーを受け持った番組であり、久米は永のことを「拾ってくれた」「恩人」と言っている。しかしのちに永自身が語ったところによると、久米は永からかなりぞんざいに扱われたため、当時はかなり恨んでいたという。現在でも「永さんの前に立つと緊張する」と語っているが、恨みはもっておらず、「大往生」がベストセラーとなった1994年にはニュースステーションの年末特番に「ベストセラー作家」として永がゲスト出演している。
そんな久米への対応を反省してか、1991年に『土曜ワイド』に復帰して以降はぞんざいに扱っても恨まれない性格の著名人に中継レポーターを任せるように気を遣っている。現在は中継レポーターに振付師でタレントのラッキィ池田を起用。オープニングからいじっているが、ラッキィは気にせずレポートし続けている。
【主な楽曲の一覧】
作詞を手がけた主な楽曲。いくつかの曲には永自身が歌った盤もある。
・黒い花びら (作曲:中村八大、歌:水原弘 他)
・黄昏のビギン (作曲:中村八大、歌:水原弘 他)
上を向いて歩こう (作曲:中村八大、歌:坂本九 他)
・帰ろかな (作曲:中村八大、歌:北島三郎 他)
見上げてごらん夜の星を (作曲:いずみたく、歌:坂本九 他)
・おさななじみ (作曲:中村八大、歌:デューク・エイセス)
・こんにちは赤ちゃん (作曲:中村八大、歌:梓みちよ 他)
・遠くへ行きたい (作曲:中村八大、歌:ジェリー藤尾 他)
・二人の銀座 (歌: 和泉雅子山内賢 他)
・今夜はヘンな夜 (作曲:もりばやしみほ、歌:もりばやしみほ + ハイポジ)
・夜はひとりぼっち (作曲:もりばやしみほ、歌:もりばやしみほ + ハイポジ)
・故郷のように (作曲:中村八大、歌:西田佐知子)
・初めての街で (作曲:中村八大、歌:西田佐知子) - 菊正宗酒造のコマーシャルソング
・いい湯だな (作曲:いずみたく、歌:デューク・エイセス 他)
・レットキス (ジェンカ) (作曲:ラウノ・レティネン、歌:坂本九
・若い季節 (作曲:櫻井順、歌:ザ・ピーナッツ)
・女ひとり (作曲:いずみたく、歌:デューク・エイセス 他)
・明日咲くつぼみに (1997年、作曲:久米大作、歌:三波春夫)

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『巨泉日記』 大橋巨泉/著 講談社 2000年発行
永六輔という男 (一部抜粋しています)
朝いちでTBSラジオにゆき、土曜ワイド「永六輔・その新世界」に出演する。永ちゃんとのツキ合いもすでに40年近い。NTVの「光子の窓」の作構成を彼がしていたころからである。彼はほとんど同年(彼が数ヵ月年長)なのに超天才で、そのころすでに売れっ子作家だった。野坂昭如も、前田武彦も、青島幸男もボクも、みんな永六輔が目標だったと思う。
普通はこういう神童的天才は早熟で終わるケースが多いが、この男は60代もなかばにかかって依然健在である。番組もおもしろいし、第一若々しい。その理由は、ボクにはよく解る。まず組織に属さず、自由に生きていること、適当な刺戟(しげき)はあるがストレス・フリーであること。自分のやりたいことと人の為になること(ボランティアやチャリティー)をやっていて、常にカタルシスを得ていることである。あとは適度の運動とバランスの良い食事だろう。これが若さの秘訣である。組織や権力やストレスはいけない。先日、テレビで見た青島はひどく老けて見えたっけ。
                                  (4月11日)
ボクは"晴れ男"を自任しているのだが、一番大切な日が雨になってしまった。OKギフト創業25周年を記念して、エコバッグを無料配布することは、3月24日に書いた。雨の中を数寄屋橋に着いたら、もう中島誠之助さんが来ていた。
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ふと気がつくとボクの隣で配布してくれていた永ちゃんの姿がない。あれ、トイレかなと思う間もなく、携帯マイクからあの声が聞こえて来た。大通りに出て、このイベントの告知をはじめたのだ。お蔭で1時間で約半分(2000枚)の配布ができた。先週ホメたのは、ホメすぎではない。永六輔とは、こういう男なのである。
                                  (4月17日)

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昭和 僕の芸能私史 永六輔/著 朝日新聞社 1999年発行
昭和36(1961)年 古川マネージャーとの出会い (一部抜粋しています)
ロカビリー少年の坂本九上を向いて歩こうを「ウエフォムフイテ アハルコフホフ」と歌ったのは第1回中村八大リサイタル(サンケイ・ホール)で登場した時だった。
この歌はそのままNHKテレビ「夢で逢いましょう」で歌われてヒットすることになる。
テレビ生まれの最初のヒットソングといわれるが、この年こそ、ラジオをテレビがその力を逆転し、新聞の「ラ・テ欄」が「テ・ラ欄」になり、番組表のスペースもテレビのほうが大きくなった。
そして「夢で逢いましょう」は渥美清黒柳徹子坂本九といった人気者を売り出し、畑違いの中嶋弘子デザイナーの司会で素人っぽい新鮮さが注目された。
ここでテレビがプロとアマの共存できる分野であると証明したことは大きい。
(その後、この素人路線は萩本欽一に引きつがれ、今や、テレビ界が素人全盛になっているのはご存知の通り)
僕はこの番組の作者であると同時に、作詞家としても重宝がられ、「若い季節」の主題歌では櫻井順と、ミュージカルではいずみたくとコンビを組むことになる。
そんな僕のマネージャーをしたいと名乗り出したのが古川益雄。
後に、大阪の流しで人気のあったアイ・ジョージカーネギーホールで歌わせるという快挙をやってのけた人で、この人脈で井上靖五味康祐といった作家たちに出会う。
このグループの遊びの中から「ドドンパ」という妙なリズムのダンスを流行(はや)らせたりした。
ちなみに初のドドンパのレコードジャケットは僕がデザインした。
古川マネージャーは最初から僕を司会者として売り込み、当時全盛期だった労音ではトリオ・ロス・パンチョスや北島三郎の司会までやってのけた。
僕から作詞の能力を引き出してくれたのが中村八大なら、タレント性を育ててくれたのが古川益雄だ。
作詞も司会も当人の意識の中には全くなかった仕事だったが、なんとか、こなすようになっていた。
前年、娘(千絵)が生まれて、僕は父親になっていた。
僕は夫として、父親としての時間が全くとれない忙しさの中にいた。
毎週土曜日は「夢で逢いましょう」のスタジオにいたが、古川マネージャーは徹底して仕事を埋め込み、初めての出版もこの年だった。
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古川マネージャーの仕事には妙なものもあって、「ウエスト・サイド・ストーリィ」というミュージカル映画の邦題を考える会議にも出た。
僕がつけたのは、「紐育(ニューヨーク)愚連隊」。
決まる直前に現代を生かすということで「ウエスト・サイド物語」になった。
このころから邦題で苦労するということがなくなってくるのだ。
この映画で驚いたのはアスファルト道路の上で踊るという場面だった。
この映画の音楽と振り付けに圧倒され、気軽に憧れていたミュージカルが遠いものになってしまった。
さすがの怖いもの知らずも、作家の生き方に文章を書く気を失い、やっぱりテレビとラジオの中で生きるのが安全かなと思うようになっていた。
そのテレビが手のつけられないメディアになるとは予測もしていないし、できもしなかった。
そして、僕には家庭があり、家族もいた。
古川マネージャーと別れるべきだと思ったら、逆に「1年間大阪に住んでみなはれ、大阪の芸能がわからなんだら、日本も世界も見えてきまへんでェ」と説得される。
後にこの大阪暮らしは約束を果たして、今ではこの言葉に感謝している。
所得倍増計画だの、レジャーブームだの、今とは違う好景気の年だった。
昭和49(1974)年 中年御三家コンサート (一部抜粋しています)
テレビではユリ・ゲラーがスプーンを曲げて超能力ブーム。
宇宙戦艦ヤマト」が銀河系で活躍していた。
現実には夢が持てない時代が見えてきた。
僕にとっても、いまだに信じられないことが起こった。
この年の12月6日。
ビートルズ以後では初めて超満員という武道館の「中年御三家コンサート」は、出演した小沢昭一野坂昭如、そして僕もビックリしていた。
プロデューサーは雑誌「話の特集」で、市民会館や文化ホールでは、それまでもコンサートを続けてきた。
つまり、調子に乗って武道館進出ということになったのだが、内心は客がいっぱいになるのか不安だった。
司会は愛川欣也で、当時、深夜放送での人気は圧倒的であり、「ポール・タマタマ」とか「ジンジロゲ・テトラ」とか妖しげな言葉を駆使して、このコンサートの宣伝もしてくれた。
そのせいか、中高生と、その父母という不思議な観客で溢れたのである。
父母はわれわれと同世代。
60年安保の挫折組。ファンというよりサポーターだった。
ヒットソングらしいものは野坂昭如の「黒の舟唄」ぐらいで、小沢昭一の「俺達おじさんには歌が無い」「トルコ行進曲」も知る人ぞ知る曲。
僕には自分の歌がないという中年御三家だったのである。
だからサポーターにとって歌なんかどうでもよかったのだ。
「何か面白いことはないか」というレベルで集まった観客だったのだろう。
この武道館にさきだって、各地で聞いていたコンサートでは、地元のフォークシンガーが前座を務めた。
九州の場合でいえば、その無名の前座が武田鉄矢海援隊だったりした。
メッセージソングという意味ならば、中年御三家には、それぞれ言いたいことがあった。
野坂昭如には新潟3区のライバル田中角栄がいた。
角栄はこの年、立花隆のペンにも叩きのめされる。
小沢昭一は、権力による風俗営業の取り締まり強化を笑いのめしていた。
僕は町おこし村おこし、ボランティアを通して行政批判などなど。
歌手活動としては野坂昭如がクロード・野坂と名乗って銀巴里(ぎんパリ)でシャンソンを歌っていたし、小沢昭一は「小沢昭一的こころ」の中で歌い、僕も尺貫法復活コンサートなどと称してライブをやっていた。
3人とも論じては歌い、歌っては論じるというステージで、その間にお互いの足を引っ張りあって笑わせた。
とはいうものの僕は後輩であり、両先輩をたてながらの構成、演出。
このステージが「週刊朝日」の表紙になったことを考えると、それなりの社会現象だったことがわかる。
この年あたりから屋外でのフォークソングコンサートが各地で人気を集め、中津川フォークジャンポリーや、京都宵々山コンサートはその代表格だった。こうしたコンサートに参加することでひと世代下の音楽家と交流を深めることになる。
さだまさし小室等北山修三上寛かまやつひろし高石ともや長谷川きよし・・・・。
女性では加藤登紀子、森山良子、イルカ・・・・。
この人たちからは年齢を超えて刺激を受けることが多かった。
今でも大切な友人たちである。

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