じじぃの「人の死にざま_135_林家・三」

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林家三平 (初代) 提供: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
林家三平は、江戸噺家名跡
林家三平 (初代) - 7代目林家正蔵の長男。
林家三平 (2代目) - 初代の次男で林家こん平の弟子。
【芸風・エピソード】
テレビ時代の申し子と謳われた三平は、テレビが生んだ最初のお笑いブーム、「(第一次)演芸ブーム」の火付け役かつ中心的存在であり、また「爆笑王」の異名をほしいままにした(今は当然のように在京のテレビ局ではそのように呼ばれているが、存命時はそれほど飛びぬけていたわけではない。当初爆笑王と呼んだことには何らかの意図がうかがわれる。)。演芸ファンからは同時期に活躍した長嶋茂雄石原裕次郎と並び称される事も多く、「永久欠番の芸人」とも言われる。
売れる前は父・正蔵と同じく古典落語を演じていたものの、絶句するわ、登場人物の名を忘れるわで、仲間内から大変下手な奴、鷹が生んだ鳶、などと馬鹿にされていた。だが3代目三遊亭金馬だけはその素質を感じ、「あいつはいつか大化けする」と将来の大成を予言していた。
時事ネタを中心に、「よし子さん」「どうもすいません」「こうやったら笑って下さい(と額にゲンコツをかざす)」「身体だけは大事にして下さい」「もう大変なんすから」「ゆうべ寝ないで考えたんすから」などの数々のギャグと仕種で一気にたたみかける爆笑落語で人気を博した。そして、「――このネタのどこが面白いかと言いますと……」と現在でいう「スベリ芸」を先駆けるネタも用いたことでも知られている。因みに「どうもすいません」、額にゲンコツをかざす仕草は、元々は父の7代正蔵が客いじりで使用し、息子たちも時折見せる、海老名家のお家芸とも言えるポーズである。なお、「どうもすいません」について三遊亭圓歌は、『NHKアーカイブス』の中で、東京タワーからのテレビ放送(フジテレビで放映されていた、『タワーバラエティ』のことと思われる)で司会をしていた三平が台詞を忘れてしまい、「どうもすいません」と額にゲンコツをかざしたところ、お客に大いに受けたのが始まりであると語っている。
持ち時間制限が厳しいテレビでの露出が目立ったという事情もあり、小話を繋いだ漫談風落語が一般の印象に強く、本格的な古典は苦手と受け取られがちである。しかし、実際には古典落語もきっちりこなせるだけの技術と素養を持っている噺家であり、弟子入りした長男の泰孝は、古典の稽古をつけてもらった際、噺を上手くできない度にゲンコツを喰らっていたという。これを見ていた次男の泰助が、「兄ちゃんはゲンコツばかり受けて、こぶばっかりだね」と言ったため、泰孝は「林家こぶ平」と名付けられてしまう。
なお、このエピソードなどを挙げてこぶ平改め9代目正蔵は、「うちの親父は弟子の名前を付けるのが下手だった」と回顧している。実際、種子島出身だから林家種平、北海道出身だから林家とんでん平という調子で、安易な名前を付けられた弟子も多い。もっとも、安易な名前だが落語家の定型的な名前からは逸脱しておりインパクトはあって覚えられやすい、また三平の弟子だと判りやすいという一面もあり、弟子たちにとって決してマイナスになるものではなかった。
この様なエピソードばかりが目立ってしまうきらいはあるが、しかし、江戸落語噺家として粋を大変に重んじる人物であった。服装は常に折り目正しく、高座には必ず黒紋付き袴で上がり、他の多くの噺家のように色つきの着流しで簡単に済ませる様な事はしなかった。洋装をまとうにしても高価なタキシードやスーツをきっちりと着こなしており、いい加減な服装・普段着で客の前やテレビに登場する事は無かった。この点について言えば、テレビ本格普及以降に台頭した落語家のみならず芸能界で活躍したタレント・芸人を見渡しても希有な存在である。
また、そのネタやトークにおいても、品位に欠ける下ネタに分類されるものが一切無かった事も大きな特徴である。下ネタを「外道の芸」「芸を腐らせる」として徹底的に嫌う芸人としても有名であった。
テレビの漫談では、ニコリとも笑わないアコーディオン弾きの小倉義雄との対比的なコンビが特に人気を博した。また、弟子の林家ペー・パー子夫妻と共に数々の珍芸を披露。ペーは一時期三平のバックギタリストとして高座を共に務めていた事がある。
なお、立川談志の回想によると(『談志楽屋噺』より)、三平は談志のような芸人仲間相手の酒席の場でも、寄席などで披露していた「すべり芸的なギャグ」をサービスとして連発していたという。談志がたまりかねて三平に意見をしても、一向にその調子を変えず、談志は三平の「本音をけっして見せない姿」に不思議な思いを抱いたという。

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昭和 僕の芸能私史 永六輔/著 朝日新聞社 1999年発行
昭和55(1980)年 林家三平 (一部抜粋しています)
女性のような男性はたくさんいるが、「私たちはゲイです」と名乗りを上げて登場したのが、おすぎとピーコである。
今でこそ、この2人はNHKにも登場するが、それまでに15年以上の認められない時代があった。
映画評論家としてのおすぎ。
服飾評論家、そしてシャンソン歌手としてのピーコ。
NHKは世論を気にして彼らを起用することをしなかった。
タモリの言葉に「NHKに出られるギリギリのオカマが永六輔」というのがあった。
僕のことを「男のおばさん」と呼んでそれを広めたのは、おすぎとピーコの2人である。
ここでオカマという言葉から整理しておく。
まず、ホモセクシャアルのホモ。
これは質が同じという意味で、植物や動物にも使われるが、人間同士となると「ゲイ」と呼ばれる。
その女性同士のニックネームが「レズビアン」である。
アメリカで盛んなゲイ・ピープルのデモに女性が参加しているのは当然のこと。
男性の中で、手術をして女装までするゲイと、そうはしないゲイがいる。
おすぎとピーコは化粧して女装することはない。
この女装しないゲイが、女装するゲイに対して使っていたのが「オカマ」という言葉であり、やがて、男性のゲイ・ピープル全体を指すようになり、差別用語とされる。
歌舞伎に代表される女形
宝塚に代表される男役。
芸能の世界では性が入れ替わることは当たり前の歴史がある。
演歌の世界では、男の歌手が女心を歌い、女の歌手が男心を歌う。
にもかかわらずNHKにおすぎとピーコが登場しなかったのは、彼らがゲイであると宣言したからだ。
宣言されては困る時代だったのだ。
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男の体で女の視点を持っているおすぎとピーコは、ややヒステリックだが正論を持っている論客である。
性別を乗り越えて人間を語れる貴重な存在が「変態」であるわけがない。
この2人を認められない人たちこそ変態なのである。
この年、ゲイの観客に支えられていた越路吹雪さんが亡くなった。
そして、もう1人、林家三平
噺家になる前からのつきあいだっただけに、観客に対する捨て見のサービスにはいつも頭が下がった。
観客を笑わせるためなら、汗みどろになって高座から客席に落ちることまでやった。
涼しげな、粋なゲイとはほど遠い、暑苦しい、野暮な芸なのに、いつも爽快感があって救われた。
寄席ファンという人たちには認められない芸で、三平にとっては、そんなことどうでもよかったのだ。
「なにしろ大変なんすから、もう、身体ァ大事にしてください」
そういった当人がいちばん体を酷使して死んだ。
越路吹雪林家三平、ともに50代の半ばであった。

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