じじぃの「人の死にざま_132_森・鴎」

森鴎外 - あのひと検索 SPYSEE
http://spysee.jp/%E6%A3%AE%E9%B4%8E%E5%A4%96/2117/
文學ト云フ事05「雁」(森鴎外 動画 Woopie
http://www.woopie.jp/video/watch/518cd8b03042384e
『考える人 日本の科学者100人100冊』 新潮社 2009年発行
森鴎外 『鴎外全集』岩波書店 ドイツに学び、兵士の白米食を唱えた文豪・鴎外のもうひとつの顔 【執筆者】大井玄 (一部抜粋しています)
南山の/たたかひの日に/袖口の/こがねのぼたん/ひとつおとしつ/その扣鈕(ぼたん)惜し・・・・・・日露戦争森鴎外が詠んだ『うた日記』中の佳篇「扣鈕」の冒頭だ。
思春期に、彼の舞姫』、『雁』、『即興詩人』などを読み夢中になった。ほとんど彼の目を通してヨーロッパを夢見たのだ。ドイツ語を学んだのもその影響といってよい。したがって、思いかけず彼と同じ社会医学としての衛生学に進み、日清・日露戦役で陸軍が膨大な数の脚気患者と死者を出した責任は、彼にも大いにあると知った時のショックは大きかった。
海軍は9ヵ月の遠洋航海で半数近い乗組員が脚気にかかる惨事を機に、白米偏重の食事が原因だと気づいた。高木兼寛が麦飯食を断行し脚気は根絶する。陸軍はドイツ留学中だった森林太郎(鴎外)の「日本兵食論」を根拠に白米食固執する。しかも森は戦闘的だった。帰国後「非日本食論ハ将ニ其根拠ヲ失ハントス」などで、日本食は西洋食に脂肪、含水炭素、蛋白のいずれにおいても劣らないとし、高木兼寛を露骨に非難した。結果、日露戦争では陸軍の脚気患者25万、その死者2万千。
文豪鴎外は私の心象世界に聳えている。軍医森林太郎は誤った我説に固辞し、予防できる惨事を招いた。2人を融合できるようになったのは、私が、70年を生きたからである。

                                • -

『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
森鴎外 (1862-1922) 60歳で死亡。 (一部抜粋しています)
「死の恐怖が無いと同時にマインレンデルの『死の憧憬(しょうけい)』も無い。死を怖れもせず、死にあこがれもせずに、自分は人生の下り坂を下って行く」と、鴎外は49歳のとき『妄想』で書いた。
彼は死の前年からときどき下肢に浮腫が生ずるのを知った。やがて彼は自分が、亡父と同じ委縮腎(いしゅくじん)に冒されていることと結核が進行していることに気がついた。しかしこのことをだれにももらさず、また嫌にもかからず、何事も起こっていないかのように、帝室博物館長兼図書頭としての仕事に勤めた。
「お通夜の晩、図書寮の方が、こんな話をした。或朝、図書寮の坂に掛ると、自分より十歩ばかり前を、ノロノロとまるで這うようにして坂を登ってゆく老人がある。見ると、右の足を引きずるように前に出し、次に左の足を同じように引きずるようにして前へ出す。気息奄々(えんえん)と云う言葉を絵にしたら、こんなだろうと思いながら、忽ちその老人を追い抜こうとしてフト見ると、何とそれが先生だったと云うのである。足に浮腫が来たのだ」(小島政二郎『鴎外先生』)
     ・
大正11年6月5日、やっと鴎外は帝室博物館長兼図書頭としての登庁をやめた。6月29日額田晋の診察をうけ、委縮腎及び肺結核であったことを確認した。
「いつか父は病気で寝るようになった。寝たのは余程悪くなってからの話だ。私が病室−−これは書斎の隣の洋室だった−−へ這入(はい)って行くと、父は寝たままはかなげな笑いかたをした」
と、鴎外の次女で当時13歳であった安奴(あんぬ)は書く。
「父は一生、病気らしい病気もせずに過ごしたので、殊更(ことさら)病気そのものに付いてまわる、あらゆる物を厭がっていたらしい。
便器を見ることを嫌って、いつも使っていた八丈の海老茶の風呂敷で便器を隠している父の神経を感じた私は、可哀想でたまらなかった。私は黙って父の傍(そば)に坐った。父は白い手を伸ばした。私はその手を取って青い静脈の透(す)いて見える父の腕を静かに撫でていた。(中略)
その中(うち)に、手を取られた父は寝てしまった。苦しそうな息使いをしながら。
私は急に悲しくなった。
強くて強くて父は本当に優しいのに強かった。子供の前で寝てしまうなんて事はなかった事だ。いつだって私たちうを守っていた。父がいるという安心で、私たちは遊びながらでもよく、寝てしまったものだ。それが今は子供のように私に手を取られながら、父は眠ってしまった。
私は傍にある団扇(うちわ)を取って静かに父を扇(あお)いだ。その団扇に白松葉の模様が描いてあったのを覚えている。扇いでいる中に私は涙が後から後から流れて、団扇の上にぽとぽとと音を立てて涙が落ちた」(小堀安奴『晩年の父』)
7月6日、遺言を賀古に託した。
「・・・・・・死ハ一切ヲ打チ切ル重大事件ナリ如何ナル官憲威力ト雖(いえども)此ニ反抗スル事ヲ得ズト信ズ余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」
しかし彼が故郷の石見に特別の愛着を持ったような事実は、実生活上にも文学上にも見られない。
この呪誼と悲哀に満ちたふしぎな遺言について、高橋義孝は、それは鴎外の自負に相当する地位、名誉を与えられなかったことに対する悲しみの表白であるとし、中野重治は、この遺書の対象は強大なる「官憲威力」そのものであって、それに対する反噬(はんぜい)であるとし、松本清張は、鴎外をしてついに疎外者の運命を感ぜしめずにおかなかった「長州閥」への復讐の語であるとする。
7月8日、43歳の永井荷風は鴎外を見舞った。
「早朝団子坂森先生の邸に至る。(中略)見舞いの客には先生が竹馬の友賀古翁応接せらる。翁ひそかに余を招ぎ病室に入ることを許されたり。恐る恐る襖を開きて入るに、先生は仰臥して腰より下の方に夜具をかけ昏々として眠りたまえり。鼾声唯雷(かんせいただらい)の如し」(荷風断腸亭日乗』)
妹の小金井喜美子は記す。
「前夜から案じられたままに昏睡状態がつづいて居て、ひどく蒸し暑い9日の朝、陛下から下されたお見舞いの置いてあるあちらの間(ま)には人影も見えますが、お枕元には賀古さんとお医者、看護婦は脱脂綿を巻いた棒で折折(おりおり)咽喉(のど)へからむ痰を取って居りました。お兄い様は目をつぶってただ息をなすって居らっしゃるだけ。お姉え様始め近親の者が少しあたりに控え、私はお床の裾(すそ)の方に座って居りました。窓掛を下した硝子(ガラス)戸を通す朝日の影は薄暗く、天井へ届くまで段を造って積み上げた本棚へ引いた黒いほど濃いカアテンの色、部屋の中は穴の底のようで、皆息を呑んで居りますので、とぎれとぎれのお兄い様の息が間遠(まどお)に聞こえるばかりでした。そしていく時過ぎたでしょう。つと賀古さんは顔を寄せて礼をなすって、
『では安らかに行きたまえ』
立って部屋をお出になります。はっとした時、お医者は厳かに、
『御臨終でございます』
謹んで申し渡されました。皆一様に礼をして言葉もなく、暫くして顔をあげたとこは誰の目からも留度(とめど)なく涙が流れて居りました」(小金井喜美子『兄君の最後』)
鴎外が最後の昏睡に陥る前の最後の言葉は、「馬鹿馬鹿しい」という呟きであったといわれる。

                                • -

森鴎外 Google 画像検索
http://images.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&rlz=1T4GZAZ_jaJP276JP276&q=%E6%A3%AE%E9%B4%8E%E5%A4%96++%E7%94%BB%E5%83%8F&um=1&ie=UTF-8&ei=BbMeS5zWCpCTkAWK2ojiCg&sa=X&oi=image_result_group&ct=title&resnum=1&ved=0CBgQsAQwAA