じじぃの「人の死にざま_127_チャイコフスキー」

ピョートル・チャイコフスキー - あのひと検索 SPYSEE
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チャイコフスキー / 白鳥の湖 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=Fo1pGzSkTJA
バーンスタインチャイコフスキー交響曲6番 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=-KAABbR5BlU
チャイコフスキー国際コンクール 提供: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
チャイコフスキー国際コンクールはモスクワで開催されるクラシック音楽のコンクール。エリザベート王妃国際音楽コンクール、ショパン国際ピアノコンクールと並ぶ、世界三大コンクールの一つと言われ、世界的に最も権威のあるコンクールのひとつである。
【開催年と入賞者】 (3位まで記述)
第4回(1970年)  ヴァイオリン部門 第2位 藤川真弓
第5回(1974年)  チェロ部門 第3位 菅野博文
第6回(1978年)  チェロ部門 第2位 藤原真理
第7回(1982年)  ヴァイオリン部門 第2位 加藤知子、ピアノ部門 第3位 小山実稚恵
第9回(1990年)  ヴァイオリン部門 第1位 諏訪内晶子
第11回(1998年) 声楽部門・女声 第1位 佐藤美枝子
第12回(2002年) ピアノ部門 第1位 上原彩子、ヴァイオリン部門 第2位 川久保賜紀
第13回(2007年) ヴァイオリン部門 第1位 神尾真由子

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『音の影』 岩城宏之/著 文芸春秋 2007年発行
チャイコフスキー バレた同性愛 (一部抜粋しています)
チャイコフスキーは、管弦楽の作品を交響曲を含めて、37書いている。オーケストラ付きの独創曲は、12曲である。世の中で、もっとも演奏される機会の多い『ピアノ協奏曲第一番』や『ヴァイオリン協奏曲』などだ。オペラも10作っていて、『エヴゲニー・オネギン』が最大傑作である。
そして忘れてはならないのがバレエ曲だ。『白鳥の湖』『眠りの森の美女』『くるみ割り人形』なしでは、世界中のバレエ界は成り立たないだろう。
彼は鉱山監督官の子どもとして生まれ、母はピアノを弾き、よい声で歌ったりしたそうだが、家庭が時に音楽的であったわけではなく、チャイコフスキーの楽才に気づいた物はいなかった。
父がモスクワに移り、8歳のとき、初めて正規のピアノレッスンを受けたが、翌年に父が遠いウラル地方に派遣されて、チャイコフスキーの音楽教育も中断した。
当時のロシアでは、音楽の道に進むのは誰も考えなかったことで、チャイコフスキーは両親の命令で、ペテルブルグの法律学校に入学させられ、19歳のとき卒業して、法務省の9等書記官に就職した。4年間、訴訟事務の取り扱いだけをやったが、音楽が好きでたまらなかった彼は、役所を飛び出したそうだ。
辞典で経歴を見てみると、かなり変わった出発をしている。
新進作曲家として名が出たころ、チャイコフスキー音楽の大ファンで、鉄道経営者の未亡人のナデジダという女性が、6000ルーブルの巨額年金を申し出て、この援助は13年続いた。
この夫人との関係は実に不思議で、自分の作品を献呈したり、文通による交際だけで、ただ一度の偶然のめぐり合いを除いて、一生涯、面会することはなかったのだそうだ。
チャイコフスキー交響曲第6番『悲愴』を初演したあと、1週間後に生水を飲んだことが原因でコレラにかかり、突然死んでしまった。現在の研究では、生水のコレラは事実ではなく、高い名声を持っていた彼の同性愛ががバレて、皇帝に死を賜(たまわ)り、つまり届けられた毒杯をあおって死んだというのが本当らしい。
なにもかもが謎につつまれ、派手でポピュラーで、しかも人の心をツーンとうつ、無数の名作を残していった大作曲家だった。

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『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
チャイコフスキー (1840-1893) 53歳で死亡。 (一部抜粋しています)
チャイコフスキーは、全ヨーロッパの名声と賞賛が最高潮に達していた1893年、彼が自己の最高傑作と自負する交響曲第6番を完成し、10月28日、ペテルブルグで彼自身の初公演した。
それから4日目の11月1日の夕方、彼はライナー・ホテルでネヴァ河の生水を飲んだ。
当時のペテルブルグではコレラが大流行していた。2日には、もう胃痙攣、下痢、嘔吐、発熱が始まり、コレラの診断が下された。
5日には、全身汗にまみれ、かって彼の大パトロンであったナデジダ夫人な名を呼びつづけていたが、6日午前3時ごろに息をひきとった。彼の唇は黒くなり、指はミイラのように乾燥していた。