じじぃの「人の死にざま_126_ニュートン」

数学ミステリー白熱教室(最終回)第4回 数学と物理学 驚異のつながり 動画 Dailymotion
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数学ミステリー白熱教室 第4回「数学と物理学 驚異のつながり」 2015年12月4日 NHK Eテレ
【講師】エドワード・フレンケル(カリフォルニア大学バークレー校教授)
抽象的な数学を突き詰めれば、やがてこの宇宙の法則を次々と解明することに繋がるとも考えられるのだ。
それにしてもなぜ、抽象世界を描くはずの純粋数学が、現実を記述する物理学と深いつながりを持つのか。
今回、特に話をしたいのは、量子物理学とのつながりだ。
数学とは全く異なる、物理学の世界ともつながりがありうる。
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最後に伝えたい言葉がある。
アイザック・ニュートンの言葉だ。
 私は浜辺で遊ぶ子どものようだった。
 浜辺ですべすべした小石や美しい貝殻を拾って喜んでいた。
 しかし、私の目の前には真理の大海原が発見されることなく広がっていたのだ。
https://www.nhk.or.jp/school-blog/300/230993.html
アイザック・ニュートン ウィキペディアWikipedia) より
サー・アイザック・ニュートンイングランドの科学者。(古典)力学を確立し近代物理学の祖となる。また数学において極めて大きな業績を残した。古典力学は自然科学・工学・技術の分野の基礎となるもので近代科学文明の設立に与えたその影響は計り知れない。1978年から1988年にかけて用いられた1UKポンド紙幣に肖像が登場している。
【生涯】
1661年に叔父であるウィリアム・アスキューが学んでいたケンブリッジ大学トリニティー・カレッジに入学した。当時大学での講義はアリストテレスの学説に基づいていたが、ニュートンデカルトガリレオコペルニクスケプラーといった物理学者の著書を好んで学んだ。ケンブリッジにおいて1663年に開設されたルーカス数学講座の初代教授に就任したアイザック・バローはニュートンの才能を高く評価し、多大な庇護を与えている。バローは時間、空間の絶対性を重要視するプラトン主義を奉じた数学者であり、ニュートンの思想にも大きな影響を与えた。バローにより1664年にニュートンは正式なスコラーに取り立てられ、さらに翌年には学位を授与されている。彼との出会いによってニュートンの才能は開花し、1665年に二項定理を発見、さらに微分および微分積分学へと発展することになった。
学位を取得した頃にロンドンではペストが大流行しており、この影響でケンブリッジ大学も閉鎖された。故郷のウールスソープへと戻ったニュートンは、その後2年間この地で微分積分学と光学、万有引力などの研究に没頭した。この一年半ほどの間にニュートンは彼の主要な業績を発見および証明しており、この期間は「創造的休暇」とも称されている。
リンゴの木からリンゴが落ちるのを見て万有引力を思いついた、という有名な伝記があるが、これはニュートンの家の窓からリンゴの木が見えることから作られた話である。しかしこれは以後のニュートンを知る人が、彼が如何に日常に起きることに関心を持ち、そこから理論への着想を得ていたかという彼の賢さを表すものとして作られたのだと言われている。例えば同時代の作家ウィリアム・ストゥークリの書いた Memoirs of Sir Isaac Newton's Life に1726年4月15日にニュートンと会話したことについて述べられている。

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ポアンカレ予想 ウィキペディアWikipedia) より
(3次元)ポアンカレ予想とは、数学(位相幾何学)における有名な予想のひとつ。
【概要】
単連結な3次元閉多様体は3次元球面S3に同相である。
という予想であり、1904年にフランスの数学者アンリ・ポアンカレによって提出された。以来ほぼ100年にわたり未解決だったが、2002年から2003年に掛けてロシア人数学者グリゴリー・ペレルマンはこれを証明したとする複数の論文をarXivに掲載した。これらの論文について2006年の夏頃まで複数の数学者チームによる検証が行われた結果、現在では彼が実際に証明に成功したと考えられている。ペレルマンはこの業績によって2006年のフィールズ賞を受賞した(ただし本人は受賞を辞退した)。
【歴史】
図形の面積や体積の求積法は、特殊なものに限れば古代からいくつも知られており、その起源は定かではないが、積分法の起源としては古代ギリシア数学書ユークリッド原論にもある取り尽くし法(積尽法、窄出法、method of exhaustion)などの幾つかの技法に求めることができるだろう。取り尽くし法はある領域の面積を無数の三角形で覆い尽くすことによって求めようとするものである。古代ギリシャでは、三角形を最も基本的な図形と捉えていたため、このような三角形による求積法が盛んであった。しかしたとえば、放物線(古くは抛物線とも)がある弦によって切り取られる面積を計算するような場合でさえ、いくらやっても三角形で覆い尽くすことはできないため、実際には殆どの領域で無限和の計算をすることになる。この困難に対してアルキメデスは、今で言う ε-δ 式の論法によりこの問題を回避したようである。
時代が下り、17世紀になってライプニッツニュートンらにより微分法が発見されると、極めて技巧的な手段に頼っていた求積法は、原始関数と微分積分法の基本公式による一般的な方法で解かれることになる。18世紀にはベルヌーイらやオイラーなどによる無限小解析の発展・整備によって計算技巧は大いに発達したが、19世紀に入るとフーリエ級数の厳密な研究などを通して、初めて積分自体の意味を問わなければならない状況が生じるようになった。実際、積分の厳密な定義は、リーマンによって論文「任意関数の三角級数による表現の可能性について」(1854年)の中で最初に与えられた。
20世紀に入ってすぐ、やはりフーリエ級数についてなど様々な解析学上の問題に刺激されて、ルベーグは、面積や体積とは何かということに就いて深く考察することにより測度論を展開し、現在ルベーグ積分論と呼ばれているものをつくった。リーマン積分可能な関数(但し広義積分は含めない)はルベーグ積分可能であるという意味では、ルベーグ積分はリーマンのそれの一般化になっている。ルベーグが測度論を用いて展開したルベーグ積分は、彼の測度論がもつ極限との親和性と抽象性から、確率論、ヒルベルト空間論、調和解析など極めて広範な応用をもち、これらは物理学や工学などで基本的な道具として用いられることとなる。
ルベーグ積分以後も更なる一般化がされた積分法が幾つか存在する。

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
ニュートン (1642-1727) 85歳で死亡。 (一部抜粋しています)
アイザック・ニュートンは生まれたとき標準児以下で、1クォート(約1.14リットル)の木桶に入れられるくらいで、以後もなかなか首が坐らなかったので、長い間首に支え木をつけていた。とても長生き出来るような子供とは思えなかった。
父はニュートンの生まれる3ヵ月前に死に、母はニュートンが3歳のとき、彼を祖母に託して再婚した。このことは彼に、怒りっぽさと、ある種の冷酷な性格を植えつけたといわれる。
14歳のとき、その母はまた夫を失い、その間に生まれた3人の弟妹を津テレニュートンのところへ帰ってきた。以後反動的な母との密着が、ニュートンを性的な不能症にしたとは後世の精神分析的な解釈である。彼は終生独身であった。
少年時代のニュートンは無口で、陰気で、外で友達と遊ぶなどいうことのほとんどない少年であった。
やがて彼は、万有引力の原理をはじめ、数学、力学の不朽の論文を発表し、いわゆるニュートン力学の創造者となる。その過程で、それら学説の先取権を主張する学者や、あるいは批判的な学者に対する彼の反論、反論というより報復は、隠微(いんび)執拗でかつ徹底的であった。
50歳になったころから彼に一種の精神異常がみられたが、それはそのころ彼が没頭していた「錬金術」の実験に水銀を使ったために、水銀中毒にかかったせいではないかともいわれる。
かくて、彼に刃向かった者はことごとく一掃され、ニュートンはイギリスのみならずヨーロッパ物理学校の大御所となった。彼はみずからを神格化した。
一方でニュートン造幣局監事にもなった。これは大官天下り用の冗職であったが、この職につくと彼はきわめて精励で、当初はびこっていた贋造(がんぞう)犯罪者たちを徹底的に取締った。彼は決して懐中時計を卵ととりちがえて鍋で煮るような、うかつな男ではなかった。そして57歳のとき、ついに造幣局局長になった。
61歳のとき、最高科学アカデミー「王立協会」の会長となり、名実ともに英国学会の総師となってからは、教会の行事を儀式化し、宮廷化し、まるでキングのごとく独裁権をふるった。
さて、生まれたとき、とても長生きできないだろうといわれたニュートンは、老いてから甚だ強壮で、肥満はしていたが血色よく、頭髪も銀白色ながら禿(は)げることもなく、眼鏡も用いず、歯は一本欠けているだけという健康ぶりであったが、80になったとき、ようやく尿の失禁現象を起こすようになった。
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83歳のとき肺炎をやり、84歳のとき痛風を起こした。
85歳の春、死ぬ半月前、王立協会の会合に出席し、71歳の王立天文学者ハリー(いわゆるハレー彗星の軌道の確認者)を叱りつけた。この日から彼は烈しい腹部の痛みに襲われるようになった。主治医は膀胱結石と診断した。
3月18日の夕方から意識不明となり、翌日の19日午前1時過ぎに死んだ。あとには莫大な貯金が残されていた。

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