じじぃの「人の死にざま_125_秋山・真」

秋山真之 - あのひと検索 SPYSEE
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四国スペシャル 「贈られた言葉〜正岡子規秋山真之 交流の記録〜」 2009年11月23日 NHK
【出演】大阪成蹊短期大学名誉教授 和田克司、防衛大学校教授 田中宏巳 【語り】加藤優子 【声】土田大河本邦弘
司馬遼太郎の代表的長編小説「坂の上の雲」。前半のストーリーは、秋山真之正岡子規との友情を中心に展開する。現実の子規と真之は、互いにとってどのような存在で、どのような言葉を交わしていたのか。近年、2人が共通の友人にあてた書簡などの発見が進み、新しい事実が出てきている。現存する真之から子規あての7通の書簡を軸に、新資料を織り込みながら、いまだ謎の多い2人の関係を読み解き、史実上の実像に迫っていく。
http://www.nhk.or.jp/matsuyama/sakanoue/event/event_012.html
秋山真之正岡子規「友の死」/「坂の上の雲」ライバル伝
青春を謳歌していた2人。
しかし東京の学生生活は楽しいばかりではありませんでした。
当時の仲間に正岡子規の幼なじみで松山出身の清水則遠という青年がいました。
子規と真之と清水の3人は馬が合い、どこに行くにも一緒でした。
http://www.sakanouenokumo.jp/rival/saneyuki_shiki/index03.html
『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
秋山真之(あきやまさねゆき) (1868-1918) 50歳で死亡。 (一部抜粋しています)
日露戦争東郷平八郎の名参謀とうたわれ、また「敵艦見ユトノ警報ニ接シ連合艦隊ハ直チニ出動之(これ)ヲ撃滅セントス、本日天気晴朗ナレドモ波高シ」という電文を起草した秋山真之は、晩年海軍大学長になったが、狷介(けんかい)鋭利の性格から、秋山は少し精神異常ではないか、と同僚から見られるような言動があった。
第一次大戦に際し、ヨーロッパ戦線を視察、帰朝後、第二水雷戦隊司令官として艦隊勤務についたが、大正6年冬、突然腹痛を訴えて帰宅した。ふだん子供たちにも「男は炬燵(こたつ)などにはいるものではない」と許さなかったのが、自分で炬燵にはいってあぶら汗を流した。盲腸炎であった。
秋山は部下の郡令部参謀清川統一大佐を呼んであぶら汗を流しながら、自分の考えた「日本が九州を失っても勝つ」兵略について語った。
そのあと彼は入院したが、手術せずに冷やして散らした。これがあとでいのちとりになった。
翌年の1月、箱根に滞在中、盲腸炎が再発した。1月下旬、小田原まで下りて知人山下亀三郎家の別荘にはいったが、当時小田原に盲腸の手術の出来る病院がなく、とかくするうちに腹膜炎を併発した。
遺児中(ただし)は語る。
「山下邸に着いた時は、もう日が暮れかかっていた。2階の病室の次の間に入ると、母と健子(真之の兄好古(よしふる)の次女)が『間に合ってよかった』と父の枕元に案内した。
父は『よくきた』とふだんと変らぬ声で迎えたが、顔はやつれ、腹部が異様に腫れあがっているのが子供の目にもわかった。枕元には海軍士官20名ほどが座しており、母や私たちが枕の横に座ったとき、父の遺言が始まった。
10歳になったばかりの私には、海軍の方々への遺言はよく理解できなかったが、殆どが国防に関することのようだった。辛うじて理解できたのは『これからは飛行機と潜水艦の時代が来る。諸子はその研究に全力を注げ』という意味のことばで、苦しい息をつぎながらほとんど叫ぶようにいい残した姿は、今も目に灼きついている」
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2月4日午前3時ごろ、枕頭に集まった見舞客たちに「みなさん、いろいろお世話になりました。これからひとりでゆきますから」と、挨拶した。
それからしばらくして、「これは辞世というほどのものじゃないが」と、つぶやいて、
「不生不滅明けて鴉(からす)の三羽かな」
と、口ずさんだ。そして、太陽がようやく相模灘に上がろうとして水平線が紅に染まり出したころに息をひきとった。

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【次代への名言】2月4日・秋山真之 2009.2.4 MSN産経ニュース
「今日の情態(じょうたい)のままに推移したならば我国(わがくに)の前途は実に深憂すべき状態に陥るであらう」秋山真之(さねゆき))
 ≪「淳、軍人になるか」
 と、好古はいった。真之は、兄の手前いきおいよくうなずいた。が、よろこびは湧(わ)かなかった。(中略)子規の顔が、うかんだ。おもわず涙がにじんだ≫
 好古(よしふる)は秋山真之の兄。のちの陸軍大将で「騎兵の父」である。子規とは、俳句・短歌革新の礎を築いた正岡子規。真之と子規は「共に文学をしよう」と誓った。思案の末だが、海軍を志すことは子規を裏切ることになる。司馬遼太郎は名作『坂の上の雲』でそんな真之の心情を右のようにつづっている。
 卓越した戦術・戦争理論家。日露戦争連合艦隊の作戦参謀を務め、日本海海戦を勝利に導いた智謀(ちぼう)の人−といったお話は別の機会に譲りたい。
 「みなさんいろいろお世話になりました。これから独(ひと)りでゆきますから」
 『坂の上の雲』にある真之のいまわのことばだ。が、昭和8年出版の『秋山真之』(秋山真之会)によると冒頭に続けてこう言い遺(のこ)している。「総(すべ)ての点に於(おい)て行詰(ゆきづまり)を生じ恐るべき国難に遭遇せなければならないであらう。俺(おれ)はもう死ぬるが、俺に代つて誰が今後の日本を救ふか」−。臨終は大正7(1918)年のきょう、旭日(きょくじつ)のころだった。
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/090204/acd0902040309000-n1.htm
秋山真之 Google 画像検索
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