じじぃの「人の死にざま_124_嘉納」

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武道の達人YouTube動画大全: 柔道の父・嘉納治五郎
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嘉納治五郎 提供: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
嘉納治五郎(かのうじごろう)は明治から昭和にかけての柔道家、教育者である。講道館柔道の創始者であり柔道・スポーツ・教育分野の発展や日本のオリンピック初参加に尽力するなど、日本に於けるスポーツの道を開いた。「柔道の父」と呼ばれ、また「日本の体育の父」とも呼ばれる。
【年譜】
万延元年10月28日(1860年12月9日)、摂津国御影村(現・兵庫県神戸市東灘区御影町)で父・嘉納治朗作(希芝)と母・定子の三男として生まれる。
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墓所は千葉県松戸市の東京都立八柱霊園に在る。
1978年(昭和53年)より「嘉納治五郎杯国際柔道選手権大会」(2007年(平成19年)からは「嘉納治五郎杯東京国際柔道大会」)が開かれ、13回(うち「嘉納治五郎杯国際柔道選手権大会」が12回)行われている。
【エピソード】
1891年(明治24年)1月、欧米視察の帰船でロシア人士官に挑まれこれを投げた。同年4月10日の讀賣新聞がこの記事を掲載した。
オリンピック、世界選手権に出場する柔道日本代表選手団が大会前に必勝祈願として、嘉納治五郎の墓参りをすることが恒例となっている。

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柔道を創った男たち 嘉納治五郎講道館の青春 飯塚一陽/著 文藝春秋
第一章 「上手な人」嘉納治五郎 (一部抜粋しています)
大局的な教育観
人間としてあまりウマがあったとはいえない両人ではあるが、教育者としてどうであったかということは検討に値する。
漱石は高師就職にさいし、治五郎に「教育者として偉くなり得るような資格は私に最初から欠けていた」という自己認識を披瀝しているのに対し、治五郎は教育こそ自分の天職と信じ、「自分にとって人に物を教えるということが一種の楽しみであった」と述懐している。
だが、漱石の教育者不適論は彼の自己認識にもかかわらず、その生涯の軌跡をみれば必ずしも当たっていない。むしろ単に文学者としてだけではなく、教育者としても類いまれな資質があったとみるべきだろう。
そうでなければのちに漱石山脈といわれるような門下生たち−−寺田虎彦、和辻哲郎小宮豊隆、内田百聞、芥川龍之介−−を輩出し、明治から大正にいたる日本文化のなかの大きな流れを形成することはできなかったにちがいない。
和辻がその著書のなかで言っているいように、感性の鋭敏な青年たちをその自宅に毎週集め、ほとんど生涯にわたってそういう行為を持続したということは、漱石自身の救いであった面ももちろんあるだろうが、吉田松陰にも匹敵する影響力である。
これに対し、教育者を自認する治五郎の教育事業は、漱石のようにかぎられた対象に凝集される性質のものではなく、いわば荒地の緑化事業のように、広範な裾野をもつものである。つまりここでも漱石が言っているように、肴屋は肴屋、菓子屋は菓子屋なのである。
いうまでもなく、教育における漱石の業績は決して治五郎に真似できるものではないだろうし、師範教育から講道館をふくめて広い意味での教育界のボスに漱石はなりえないだろう。治五郎は前後約20年にわたって師範学校校長としての巨大な発言力をもち、教育調査会、教育検定委員会、教科用図書調査委員会等、当時の教育の根源にわたるすべての委員会の委員をかねた。
そして死亡する昭和13年には、入門者12万を数えるようになった講道館師範学校とをたくみにリンクさせ、講道館柔道のみならず広く武道教育を小中学校の正課として全国に普及させ、そのためにも専門家を養成する−−その才覚は並大抵のものではない。

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
嘉納治五郎 (1860-1938) 77歳で死亡。 (一部抜粋しています)
講道館創始者嘉納治五郎は、第12回オリンピック(昭和15年度)の日本開催に疾走し、昭和13年春、カイロで開かれたオリンピック委員会に出席し、ついにその誘致に成功した。当時日本は国際連盟から脱退しており、また日中事変を起こしていたので国際世論はきびしく、これに当っての彼の心労はひとかたならぬものがあった。
彼がカイロで熱弁をふるっているころ、日本の議会では政友会の若い代議士河野一郎が、「かくのごとき時局にオリンピックとは何事ぞ。オリンピックは中止すべきではないか」と、近衛首相に迫っていた。
嘉納はその帰途アメリカに渡り、シアトルから氷川丸に乗船した。
氷川丸船長鉋内晴磨の5月25日付の報告。
「−−御乗船までのお忙がしき御旅行−−ニューヨークより旅客機にて米大陸横断シアトルへ、シアトルより自動車にてバンクーバーへ−−而(しか)して各地にて待設(まちもう)けたる連日の歓迎会等にて、おそらく御保養の暇なかりしものと察せら候。さすがお元気の先生も御疲労の色蔽(おお)うべくもなく、物いうも物憂(う)げに見受けられ候。
加うるに、カイロ以来、喉を痛められし由にて、未だ軽微の咳と喀痰とあり、毎日2回吸入を続けられ候。
5月1日、突如御発熱あり、御食欲も減退致し候を以(もっ)て、お手当をなし、安臥をお勧め致し候。其後船医初め看護手給仕等、日夜手当と看護に全力を尽し候も、病勢衰うるに至らず、急性肺炎を併発するに至り候。
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高熱中にもオリンピック大会のことは脳裏を離れざるものの如く、無線電話にて医院と打合せ致したし等と申され、3日の夜の如きは『いかなる社会生活にも耐え得る気力が出て来た』と申され、起床したき旨、看護の者に申し出でられたる由に候。その気力の旺盛なるには驚嘆のほかこれなく候。
4日午前4時半に至り、危篤に陥(おちい)られ候が、何ら御苦痛の色も見えず、静かに安らかに午前6時33分、眠るが如く御逝去遊ばされ候。
その温顔は御平素と異なるところなく、実に安心立命の境地に達せられたる士の臨終はかくのごときものかと、目のあたりに拝せる我々は、悲しみのなかにも無限の教えを受け、感動いたしたる次第に御座候」
氷川丸が横浜に到着する2日前の太平洋上であった。遺体は氷詰めにされて故国に帰った。
嘉納の死後わずか72日目の7月15日、近衛内閣はオリンピックの東京大会返上を決定発表した。

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【次代への名言】7月14日・嘉納治五郎 2009.7.14 MSN産経ニュース
武道精神こそオリンピック本来の意義と合致するものである嘉納治五郎
 柔道の創始者でわが国初のIOC(国際オリンピック委員会)委員、嘉納治五郎がその報を聞くことがなかったことは不幸中の幸いだった。前年にはじまった日中戦争が泥沼化しつつあった昭和13(1938)年のきょう、五輪を所管する厚生省は、2年後に控えた東京五輪開催を返上することを決めた。厚相の木戸幸一は「国を挙げて戦時体制に備えているときだ。真(まこと)に仕方がない」と語った。日本には、精神的にも財政的にも五輪を開催する余力はなかった。
 五輪招致を「息子の嫁取り」と呼び、だれよりも尽力したのが嘉納だった。
 「大会の真っ最中に、敵機が飛んで来て爆弾をドンドン落とすというならとにかく、連勝破竹の日本が、招致のときはお祭り騒ぎしておきながら、わずかの金を惜しんで大会をやめたのでは、大国の襟度(きんど)(度量)は何によって示せるか」。この年の初め、開催返上論が出始めたときのことばだが、返上決定の2ヵ月前、77歳の老齢をおして出席したIOCのカイロ総会からの帰途、船中で没した。
 悲願は26年後、かなえられた。「でもそれは『長男』の話。そろそろ『次男』にも嫁取りを」−。嘉納翁のそんな声が聞こえるような気がしてならない。