じじぃの「人の死にざま_108_美空・ひばり」

美空ひばり - あのひと検索 SPYSEE
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【最後の映像】 美空ひばり川の流れのように 動画 YouTube
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愛燦燦 美空ひばり 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=uMVQ5LpT5Ik
美空ひばりさん23回忌法要 歌手仲間ら600人 2011年6月21日 CHUNICHI Web
昭和を代表する歌手で、1989年6月24日に52歳で亡くなった美空ひばり(本名・加藤和枝)さんの23回忌の法要が20日、東京・内幸町の帝国ホテルで行われ、歌手仲間や友人、芸能界関係者ら約620人が参列した。NHK BSプレミアムの特番(26日放送)内で、ひばりさんが日記に書き残した詩に曲をつけた“新曲”が披露されることも発表された。
http://www.chunichi.co.jp/chuspo/article/entertainment/news/CK2011062102000099.html
美空ひばり ウィキペディアWikipedia)より
美空ひばり(1937年(昭和12年)5月29日 - 1989年(平成元年)6月24日)は、数々のヒット曲を歌い銀幕スターとして多数の映画に出演した昭和の歌謡界を代表する日本の歌手、女優である。
女性として初の国民栄誉賞を受賞した。横浜市磯子区滝頭出身。 愛称は御嬢(おじょう)。横浜市立滝頭小学校卒業。精華学園高等部卒業。本名は加藤 和枝(かとう かずえ)。
【幼少期】
神奈川県横浜市磯子区滝頭の魚屋「魚増」を営む父・加藤増吉、母・喜美枝の長女として生まれた。家にはレコードがあり、幼い頃より歌の好きな両親の影響を受けひばりは歌謡曲・流行歌を唄うことの楽しさを知る。
1943年6月、第二次世界大戦の戦時中に父・増吉が出征となり壮行会が開かれ、ひばりは父のために『九段の母』を唄った。壮行会に集まった者達がひばりの歌に感銘し、涙する姿を目の当たりとした母・喜美枝はひばりの歌唱力に人を引き付ける可能性を見出して、地元の横浜近郊からひばりの唄による慰問活動を始める。
【晩年・病魔との闘い】
1985年5月、ひばりの誕生日記念ゴルフコンペでプレー中に腰をひねり、両足内側にひきつるような痛みが走ったという。その頃からひばりは原因不明の腰痛を訴えるが、徐々に腰の痛みが悪化していく中でも、ひばりは微塵も感じさせない熱唱を見せていた。だが2年後の1987年(昭和62年)、全国ツアーを四国を皮切りに各地で展開していたものの、ひばりの足腰の激痛はついに耐えられない状態に陥った。そして同年4月22日、公演先の福岡市で極度の体調不良を訴え、同市中央区の福岡県済生会福岡総合病院に緊急入院。重度の慢性肝炎および両側特発性大腿骨頭壊死症と診断され、約3ヵ月半にわたり同病院にて療養に専念となった(入院当時実際の病名は「肝硬変」であったが、マスコミには一切発表しなかった。ひばりの病状は深刻だったが隠し通して、公表する病名の程度を低くした)。また、それに伴い同年5月に予定された、明治座の公演中止を発表。入院して約1ヵ月後の同年5月29日、ひばりは丁度50歳の誕生日を迎えていた。
入院中の1987年6月16日に鶴田浩二、7月17日には石原裕次郎と、ひばり自身とも親交が深かった昭和の大スターが相次いで亡くなる中、ひばりは8月3日に無事退院を果たし、病院の外で待っていた沢山のひばりファン達に笑いながら投げキッスを見せた。退院後の記者会見では「『もう一度歌いたい』という信念が、私の中にいつも消えないでおりました。ひばりは生きております」と感極まって涙を見せる場面もあったが、最後は「お酒は止めますが、歌は辞めません」と笑顔で締めくくった。その2ヵ月後、10月9日に行われた新曲『みだれ髪』のレコーディング(シングルレコード発売は12月10日)より完全復帰した。
しかし、病気は決して完治した訳ではなく、肝機能の数値は通常の6割程度しか回復しておらず、大腿骨頭壊死の治癒も難しいとされた。ある日、里見浩太朗が退院後のひばりを訪ねた際、階段の手すりに掴まりながら一歩一歩と下りてきたと後に語った。それが里見自身ひばりとの最後の対面だったという。

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『20世紀命日大事典』 蕪木和夫/著 風塵社 1999年発行
6月24日−美空ひばり (歌手・52歳)
昭和のスーパースターを一人あげよと問われれば、それはちゅうちょなく美空ひばりと答えよう。
ひばりはインテリジェンスの踏み絵のような存在だと語ったのは作曲家の船村徹だったが実に言い得て妙だ。
低俗な流行歌と決めてかかるインテリたちを尻目にひばりは戦後日本の復興とクロスするようにして一歩、また一歩とスターの階段を昇っていったのだ。
その歌唱力は群を抜いていた。ジャズから民謡までこなしてしまうストライクゾーンの広さには誰もが舌を巻いた。
しかし大衆がひばりを不世出の大スターと認知したのは頂上を極めた"公人"美空ひばりに対し"私人"加藤和枝(本名)の不幸にあったのだ。このバランスこそ大スターの条件だと私は確信している。
すなわち、加藤和枝は美空ひばりと結婚したのだ! ひばりは未だ多くの日本人の心の中を飛翔しているにちがいない。

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『旅の途中 巡り合った人々』  筑紫哲也 朝日新聞社 2005年発行
美空ひばり 「王座」に照れた女王 (一部抜粋しています)
「お兄さんなんですよね」
初対面の時、彼女がまず発したこの言葉を今も鮮やかに私は覚えている。
たしかに1937年生まれの彼女は私より2歳、年下である。が、最初にそのことを指摘したのには2つの意味があったと思う。
ひとつは、この「女王」の前に現われる未知の人間のほとんどが、今では彼女より年下だという事実である。インタビューなどでやって来る彼らは、美空ひばりという存在の大きさに実感がないか、彼女のことをよく知らない者までいる。誇りが傷つく一瞬だが、「むかしはそういう人が現われるとプイと横を向いたものでした。いまではそういう人にこそ自分を説明してあげたい気持ちになる」。そういうなかで、珍しく年長の者が現われて自分の若さを実感できてうれしかったのだろう。だが、この指摘は、私に会うに際して予め私のことを調べてきたことを示している。これがもうひとつの意味である。
それは単に彼女が用意周到な性格だということではない。マスメディア、なかでも活字、そのなかでも新聞、そしてさらにそのなかでも私の属していた新聞が、彼女にとっては終始、「宿敵」だったということが関係していた。警戒し、用心深くあらねばならぬ対象だったのである。そのことに私が気づくのはもっと後のことではあるが。
闘病、入院生活を経ての再起公演「不死鳥」(東京ドーム)は、「私に引退公演はない」と言っていた彼女にとって、結果的には東京での最後のステージとなったが、この公演を「宿敵」の朝日新聞をはじめ各紙が絶賛した。
「はっきり言って、私は8歳のときから新聞というものは、これは恐怖の紙だと子ども心に思っていました。だけどこんなにうれしい紙、こんなによく見えた紙はない」
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「外部の人間でここに入るのはあなたが最初です」。お付きの人がそう言った。
新築したばかりのその家は、たしかに2階に向かう階段に運び込まれた段ボール箱がまだ連なっていた。
結果的には、この日が彼女に会う最後の機会となった。翌日、私はニューヨークに赴任した。というより、転勤の辞令はとっくに出ていたのだが、その前に、私のやっていた新聞連載のために彼女に会いたいと思い、出発を延ばしていたのだった。「気になるなんばぁわん(NO.1)」という、そのインタビュー連載のトリは彼女にしようと私は最初から決めていた。
前にあった家を取り壊して新築されたその洋風の家は、"第3次ひばり御殿"と世間では言われていた。ところが、本人はこれが自分にとって「最初の家」だと言う。小さいころから忙しく飛び回り、家のことはすべて父や母が取り仕切っていた過去に立てられた「御殿」には、自分の家と言う実感はなかったと言うのだ。何から何まで、自分が主導権を持って建てたこの家こそ自分にとって初めての家なのだった。が、そこには養子として迎えた弟の子を除いて、だれもいなかった。あれほど世間の風当たりのなかで守り合った家族――父、母、弟たちはみな世を去っていた。
彼女よりはるか後輩でありながら、一時代を画した後さっと引退、家庭に入ったスーパースター、山口(三浦)百恵は、私との「ラスト・インタビュー」(月間『PLAYBOY』1980年)で話が美空ひばりに及ぶと、きっぱり言った。
「私は、ああなりたくありません。寂しすぎます」
その当時よりもさらに、ひばりの周辺はさびしくなっていた。が、最後に会った彼女は信じられないほど明るく、屈託がなかった。突き抜けたような明るさだった。それは苦しみの果てに獲得したもののようにも、庇(かば)い守るべきものをもはや持たないかわりに自分だけを考えればよいという開放感の表れのようにも私には見えた。
おもしろいことがあった。
通された居間には客用の長いソファと、主人が対するひとり坐りのソファとがあった。ひとり坐りのほうには、坐る部分にさらに座ぶとんが2枚重ねられていた。その上に主人が坐れば客たちを見下ろす形になる。いわば「玉座(ぎょくざ)」であり、「女王」にふさわしい配置である。ところが、現われたひばりは「あら、あら、こんなことやめなさいといつも言っているのに」と言いながら座ぶとんを外して着席した。照れくさそうな表情だった。
後に「3大テノール」が日本初公演をした時、彼らがアンコールに選んだ日本の曲は川の流れのようにだった。国立競技場の客席でそれを聴きながら、秋元康らは本当に「よいこと」をしたな、とひばりのことに思いを馳せながら私は思った。この曲がなかったら、歌手としてのひばりの晩年はずいぶんと寂しいものになっていただろうと思うからである。
この曲が誕生するきっかけには、秋元らの"挑発"といたずら気分が秘められていた。自分たちとは遠い世界である「演歌」、そしてその世界の最大の存在であるひばりに、「私たちの世界に遊びに来ませんか」と"ちょっかい"をかけてみたのである。「女王」に対してでなく「お母さん」への呼びかけである。かっての、鎧(よろい)をまとい、「玉座」に君臨するひばりだったら、「プイと横を向いて」いただろう。
「お母さんって尊敬されてるんですからうれしんです。で、オレたちの音楽もわかってくれよ、と言ってきたら、あんたたちのは全然わかんないと言ったらいけないと思うんですね。もし、お母さんがそれに挑戦して歌ったら、息子たちはどんなに喜ぶかと思うんですね。だから、ああ、いいわね、おもしろいわねって答えて」
「お母さん」と「息子たち」。彼女のとらえ方はここでも「家族」である。
ひばり邸を辞して、そこでの快い出会いを反芻しながら、私はハッとした。
世間の定評、そして世間への彼女自身の身構えとはかなり相違して、素顔の美空ひばりはざっくばらんであけすけな人柄ではあるが、それにしても以前にもまして「険(けん)」が全く消え失せている。再起公演が成功して元気にあふれ、「やはり歌うのが自分にとっての幸せ。ただいつまでも恋はしたい」と先を見つめてもいる。だが、こんなにも「険」がとれ、「いい人」になってしまっているのは、先がそう長くはない兆候ではないか――。

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