じじぃの「人の死にざま_106_ロートレック」

アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック - あのひと検索 SPYSEE
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Henri de Toulouse-Lautrec 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=lYKeFakAy1I&feature=PlayList&p=4A943107637F2F3D&index=52
ロートレック 「ムーラン・ルージュラ・グーリュ」

世紀末のパリを駆け抜けた異才の画家
ロートレックの世界 11月10日〜12月23日 Bunkamura ザ・ミュージアム WEDGE infinity(ウェッジ)
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/577
美の巨人たち ロートレック 「ムーラン・ルージュラ・グーリュ」 2013年11月30日 テレビ東京
【ナレーター】小木薫
2週連続でお送りする“絵画と食のスペシャル”。第一弾となる今日の一枚は、世紀末の巨匠アンリ・ド・トゥールーズロートレック作『ムーラン・ルージュラ・グーリュ』。石版画リトグラフによってムーラン・ルージュ開店2年目に制作されたもので、画家のポスターデビュー作です。中心には一番人気のダンサー、ラ・グーリュの躍動感あふれる姿が描かれ、手前にはパートナー。
http://www.tv-tokyo.co.jp/kyojin/backnumber/131130/index.html
『すぐわかる画家別印象派絵画の見かた』 島田紀夫/監修 東京美術 2007年発行
印象派をさらに飛躍させた画家たち (一部抜粋しています)
アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック
本名アンリ・マリ・レイモン・ド・トゥールーズ=ロートレック。長い名前が示しているとおり、貴族の出身である。14、15歳のときに相次いで両足を骨折し、下半身の成長がとまってしまった。そのため、得意な絵画の道を突き進むことになった。
パリに出て、当時に有名画家コルモンの画塾に入るが、ロートレックを魅了したのは、モンマルトルに集まる芸術家たちであり、歓楽街の喧騒(けんそう)だった。ロートレックは母親の反対を押し切り、モンマルトルにアトリエを借り、画家の友人たちとの日々を楽しんだ。モンマルトルのカフェや酒場に出入りするようになったロートレックは、夜の退廃的な世界に魅了された。そこでの現実を静かに観察し、そこに人生の縮図を見て取っていた。
上流階級出身のロートレックは生活に困ることがなかったために、自分の気に行ったものに専念することができた。ドガ同様、ロートレックは人工照明の下にいる人びとを好んだ。印象派の画家のように光を描きとめることに関心は向かなかったが、都市の生活を描いたという点で印象派の後継者となっている。ロートレックは人物を素早くスケッチするため、カンヴァスよりも厚紙を多く用いた。印象を描きとめるにはそのほうが便利だったようだ。ロートレックはサロンで作品を発表することを目指していたわけではなかった。彼の名前を有名にしたのは。ポスターや版画という複製芸術であった。日本の浮世絵からも影響を受けた斬新な構図は、とりわけポスター芸術で花開くことになる。
ロートレックのプロフィール
尊敬する芸術家 「特にいませんでしたが、日本の美術には関心がありました」

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『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
ロートレック (1864-1901) 37歳で死亡。
伯爵家に生まれたロートレックは、14歳のとき椅子の下にあった箒(ほうき)の柄(え)に足をひっかけてころび、左足を骨折した。数ヵ月後、びっこをひきながら散歩中、深い溝に落ちて、今度は右足を骨折した。このために彼の下半身の成長はとまり、後年ゴンクールが「笑止にたえない小男、漫画的な不格好」と評したような肉体の所有者となった。
彼が画家となってからの病的な飲酒癖、娼家への耽溺は、あきらかにこのコンプレックスをまぎらわせるための非劇的な反応であった。奇怪な肉体に山高帽、鼻眼鏡という姿で、夜毎モンマルトルの娼家で酒をあおりつつ、好んで彼は酒場や芝居小屋や娼家を描き、またそれらのポスターの石版画を描いた。
しかし強度のアルコール中毒のため、30代半ばから目立って健康が衰え、母の監視のもとに入院のやむなきに至ったが、病院でも絵を描きつづけ、一方飲酒癖は依然やまず、ステッキにラム酒を仕込んで、散歩中に飲むというありさまだった。そしてついに足は完全に動かなくなり、やがて手にも痙攣を起こすようになった。そして、死の前年、母のいるマルロメの城に帰り、1901年9月9日、母ににとられて死んだ。
彼は「自分の足がふつうだったら、決して画家などにならなかったろう」といい。また、自分が後世に残る大画家だという自覚もついになかったようで、彼がただの世紀末風俗画家でなく、戯画作者でないことが人びとにわかるまで、死後13年を要した。その年、彼の絵がルーブルにはいったのである。
酒と女郎買いと絵と−−それは彼にとってに肉体的な欠陥を忘れさせるための同列の道具であったが、知らずして最後のものは、芸術の高みにまで昇華されていたのだ。

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ロートレックの言葉
「職業モデルは決まって剥製みたいなんだ。でも、こっちの娘たちは生きている」

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