じじぃの「人の死にざま_94_芥川・龍之介」

芥川龍之介 - あのひと検索 SPYSEE
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芥川龍之介 ウィキペディアWikipedia)より
芥川龍之介(あくたがわりゅうのすけ、1892年(明治25年)3月1日-1927年(昭和2年)7月24日)は、日本の小説家。号は澄江堂主人、俳号は我鬼を用いた。
その作品の多くは短編で、「芋粥」「藪の中」「地獄変」「歯車」など、『今昔物語集』『宇治拾遺物語』などの古典から題材をとったものが多い。「蜘蛛の糸」「杜子春」など、童話も書いた。
【生涯】
東京市京橋区入船町8丁目に牛乳屋を営む新原敏三、フクの長男として生まれる。
1927年(昭和2年)1月、義兄の西川豊が放火の嫌疑をかけられて自殺する。
7月24日未明、「続西方の人」を書き上げた後、致死量の睡眠薬を飲んで自殺した。服用した薬には異説があり、例えば、山崎光夫は、芥川の主治医だった下島勲の日記などから青酸カリによる服毒自殺説を主張している。同日朝、文夫人は「お父さん、良かったですね」と彼に語りかけたという話もある。
蜘蛛の糸 ウィキペディアWikipedia)より
蜘蛛の糸』(くものいと)は、芥川龍之介によって書かれた短編小説である。
1918年(大正7年)に鈴木三重吉により創刊された児童向文芸誌「赤い鳥」創刊号に発表された。芥川龍之介が手がけたはじめての児童文学作品で、肉筆原稿には鈴木三重吉による朱筆がある。
【あらすじ】
ある日の朝、極楽を歩いていた釈迦が、ふと蓮池の水面からはるか下の地獄を覗くと、幾多の罪人の中からカンダタという男を見つけた。カンダタは生前に様々な悪事を働いた泥棒であったが、一度だけ小さな蜘蛛を踏み殺そうとしたところを思いとどまり、その命を助けた事があった。それを思い出した釈迦は地獄の底のカンダタを極楽へ案内するために、一本の蜘蛛の糸カンダタに下ろす。
カンダタは極楽から伸びる蜘蛛の糸を見て「この糸をつたって登れば地獄から脱出できるばかりか極楽に行けるかもしれない」と考える。そこで蜘蛛の糸につかまって、地獄から何万里も上にある極楽へと上り始めた。ところが糸をつたって上っている途中でふと下を見下ろすと、数限りない地獄の罪人達が自分の下から続いてくるのに気づいた。このままでは糸は重さによって切れて落ちてしまうと考えたカンタダは「この蜘蛛の糸は俺のものだ。お前達は一体誰に聞いて上ってきた。下りろ、下りろ」と喚いた。すると次の瞬間、蜘蛛の糸カンダタのぶら下がっている所から切れてしまい、カンダタは再び地獄に堕ちてしまった。
その一部始終を見ていた釈迦は、カンダタの自分だけ地獄から抜け出そうとする無慈悲な心と、相応の罰として地獄に逆落としになってしまった姿が浅ましく思われたのか、悲しそうな顔をして蓮池から立ち去った。

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『追悼の達人』 嵐山光三郎著 新潮社
芥川龍之介
お父さん、よかったですね (一部抜粋しています)
芥川の自殺は用意周到で、自殺したときに机の上に置かれていた「或級友へ送る手記」は、35歳で自殺に至る死の弁明、解説であり、これでは追悼するほうは、ただその死を理解、追従して、惜しむしかない。自殺する側に力があり、これを自殺力という。
芥川の自殺芝居がかっていて、絶頂期の芸術以上主義的死の仕掛けがあり、「手記」をはじめ夫人あての遺書、子どもあての遺書、小穴隆一、菊池寛あての遺書など5通が残されており、これらの「手記」、遺書は、追悼文へのヒントのようなものだ。追悼文が生き残った者の解答文ならば、芥川は、なみいる作家たちへ追悼という宿題を残して死んだことになる。
その結果、芥川が死んだ昭和2年に活躍していた高名小説家は、ほとんどの人が、なんらかの追悼を書き、「文藝春秋」中央公論」「文章倶楽部」「改造」「三田文学」「婦人公論」などで追悼合戦となり、芥川に対してどう対応するかが、その人の文学的立場の証明であり、かつ力量の尺度となった。
谷中斎場の葬儀には、文壇関係者七百数十人を含めて総計千五百人が参列し、弔辞は先輩代表泉鏡花、友人総代菊池寛、文芸家協会代表里見紝、後輩代表児島政二郎、という文壇オールスターメンバーだった。
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芥川の「手記」は、自殺の分析、目的、方法、死に場所を論じている。少し長くなるがここに引用する。
「誰もまだ自殺者自身の心理をありのままに書いたものはない。それは自殺者の自尊心や或は彼自身に対する心理的興味の不足によるものであろう。僕は君に送る最後の手紙の中に、はっきりこの心理を伝えたいと思っている。尤も僕の自殺する動機は特に君に伝えずとも善い。レニェは彼の短編の中に或自殺者を描いている。この短編の主人公は何のために自殺するかを彼自信も知っていない。君は新聞の三面記事などに生活難とか、病苦とか、或は又精神的苦痛とか、いろいろの自殺の動機を発見するであろう。しかし僕の経験によれば、それは動機の全部ではない。のみならず大抵は動機に至る道程を示しているだけである。自殺者は大抵レニェの描いているように何の為に自殺するかを知らないであろう。それは我々の行為するように複雑な動機を含んでいる。が、少くとも僕の場合は唯ぼんやりした不安である。何か僕の将来に対する唯ぼんやりした不安である。君は或は僕の言葉を信用することは出来ないであろう。しかし十年間の僕の経験は僕に近い人々の僕に近い境遇にいない限り、僕の言葉は風の中の歌のように消えることを教えている。従って僕は君を咎めない。
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君は自然の美しいのを愛し、しかも自殺しようとする僕の矛盾を笑うであろう。けれども自然の美しいのは、僕の末期の目に映るからである。僕は他人よりも見、愛し、且又理解した。それだけでは苦しみを重ねた中にも多少僕には満足である。どうかこの手紙は僕の死後にも何年かは公表せずに措いてくれ給え。僕は或は病死のように自殺しないとも限らないからである」
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芥川への追悼は、小説家、詩人、俳人歌人、批評家総がかりで、原文だけで分厚い一冊の調書ができる。それは綿密なアリバイ工作を企(たくら)んだ才人を、同時代の作家があの手この手で自供させようとした格闘に思える。
芥川の死は、理知的で技巧的なものの破綻でありつつ、思考の迷路はなかなかしっぽをつかませず読者を眩惑した。芥川は自己の神格化をはかり、自分の死を客観化させようとし、この企みは決定的に「新しい」ものであった。芥川を追求する側もまた自己の立場を弁明しなければならなかった。
自殺未遂をくりかえしたはて、やっと自殺した芥川の死顔を見つめながら、文子夫人は「お父さん、よかったですね」ともらした。どの追悼よりも芥川にはこの言葉が重かったのではないだろうか。

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