じじぃの「人の死にざま_91_ピアフ」

エディット・ピアフ - あのひと検索 SPYSEE
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映画『エディット・ピアフ〜愛の讃歌〜 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=V5OXONk9qS8
第二章 エディット・ピアフ 愛の賛歌編
http://kuruizaki.harisen.jp/piaf/piaf002.htm
エディット・ピアフ 提供: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
エディット・ピアフは、フランスのシャンソン歌手。
フランスで最も愛されている歌手の一人であり、国民的象徴であった。彼女の音楽は傷心的な声を伴った痛切なバラードであり、その悲劇的な生涯を反映していたのが特徴であった。有名な曲としては「ばら色の人生 La vie en rose」(1946年)、「愛の讃歌 Hymne a l'amour」 (1949年)、「ミロール Milord」 (1959年)、「水に流して Non, je ne regrette rien」 (1960年)などがある。

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朝日新聞社 100人の20世紀 上 1999年発行
エディット・ピアフ (1915-1963) 47歳で死亡 【執筆者】松本仁一 (一部抜粋しています)
1935年7月、ピアフが19歳のときだ。娘のマルセル(2つ)が死んだ。
ピアフは16歳で同棲する。相手は18歳の少年。翌年生まれたのがマルセルだった。
マルセルを埋葬しなければならない。手元にある金は、埋葬費用に10フラン足りなかった。彼女は深夜の街に出て、通りがかりの男とホテルに入る。しかし男は、事情を聞くと黙って10フラン銀貨を置き、「もういい、元気をだしなさい」といって立ち去った−−。
ピアフは自伝『わが愛の賛歌』にそう書いている。有名な話だ。
ところが、この話は脚色されていた。「美談」の部分がでっちあげだったのである。
「実は、私がつくった話なんですよ」
大衆紙『フランス・ディマンシュ』の元記者、ジャン・ノリさんが笑った。
ノリさんは60年当時、ピアフともっとも親しい芸能記者で、パリの自宅に入りびたっていた。ピアフの記事で一面をつくると、新聞が全部売り切れる時代だった。
ある晩、何かネタはないかとねばるノリさんに、ピアフが語り出す。埋葬費用の10フランのために男と寝たことがある、というのだ。ノリさんはびっくりした。
「そんな話を書いたらファンは腰を抜かしてしまう、といんったんです。どうすればいいかしら、と彼女は聞く。そこで男は10フランくれただけで何もしなかった、という話にしたわけです」
ピアフはその話がすっかり気に入った。
「いいわね、それ。それでいこうよ」
話は新聞に載り、彼女はみんなに話してまわった。そしてとうとう自伝にまで書いてしまったのである。
「彼女にとって、売春の過去があろうが自伝が真実でなかろうが、そんなことは大したことではなかった。それより、歌で自分の値打ちを決めてほしい。そういうことだったと思います。・・・・それほど、彼女の歌はすごかった」
大道芸人の子としてパリの下町で生まれる。子供のころから街で歌い、投げ銭をひろっていた。
ある日、通りかかったキャバレー経営者がその声の魅力に気づき、舞台に立たせた。1935年、娘マルセルを失ったばかりのころだ。その2年後には、もうスターになっていた。
同時に、男性遍歴が始まった。レーモン・アッソやミシュル・エメール、イブ・モンタンらを愛人にする。それは戦後も止まらない。シャルル・アズナブール、シャック・ピルス。ジョルジュ・ムスタキ、シャルル・デュモン・・・・。
私生活はめちゃくちゃだった。大勢の取り巻きを呼びつけ、昼夜の別なく大騒ぎする。4回も交通事故を起こし、手術で麻酔薬の中毒にもなった。体はぼろぼろだった。しかしいったんステージに立つと、別人のようにしゃんとした。
フランスでも、当時はまだ社会的モラルが激しかった。ふしだら、という言葉が重みを持っていた時代である。ピアフを白い目で見る人も多かった。なまはんかな歌手だったらつぶれていただろう。しかし彼女は堂々と恋をし、歌い続けた。
スター時代の前半は、ナチスの台頭、第二次世界大戦勃発、連合軍上陸という動乱の時代と重なる。
彼女はナチス支配下でも歌い続けた。その一方で、仏兵捕虜の慰問公演に出かけては捕虜を楽団員にまぎれこませ、脱走させたりしている。ナチスの前でふるえ上がるタイプの人間ではなかったらしい。
戦争が終わると、ラジオの性能が急速に向上した。それまでステージが中心だったピアフの歌は、電波に乗って世界中に広がっていった。
「彼女には本物を見抜く力がありました」
元恋人の一人、シャルル・デュモンさんはそう語る。歌手であり、ヒット曲「水に流して」「モン・デュー」などの作詞者だ。
彼女と初めて出会ったのは60年の夏。「水に流して」をピアフに聞いてもらうことになり、約束の午後5時に家に行った。ところが会ってもらえない。疲れていて、会う気がなくなったらしい。玄関でメードと押し問答していたら奥から声がした。
「来ちゃったなら仕方ないわ」
ピアフが出てきた。青いガウン、くしゃくしゃの髪。不機嫌な声で「聞いてあげるから早くしてね」という。客間のグランドピアノを弾きながら歌った。彼女はピアノにほおづえをつき、むっつりと聞きはじめた。しかし、歌い終わったときの顔つきはまったく違っていた。
「これ、あんたがつくったの? もう1回歌って」
もう1回、もう1回・・・・。それから彼女は友人に電話をかけた。
「すごい歌ができたの、すぐ来てちょうだい」
有名なミュージシャンが大勢呼びつけられた。その前でまた歌う。何十回歌ったか覚えていない。結局、解放されたのは翌朝朝の5時。自分の歌なのに、もう聞くのも嫌になるほどだった。
「彼女は大スターでした。疲れていたのなら、無名歌手の新曲など、お義理に1回聞くだけで追い返せばすんだのです。しかし彼女は、これはいいと思ったら真剣になった」
元恋人のもう一人、シャルル・アズナブールさんはいう。
「彼女自身が本物だった。だから本物を見抜けたのです。彼女はすべてがすごかった。才能、性格、愛し方、怒り、でたらめさ・・・・」
音楽にしても恋にしても、一つのことに夢中になると、彼女はほかのことが見えなくなった。
映画『第三の男』にほれ込んだ。毎日映画館に通う。アズナブールさんをふくめ、取り巻きたちは全員が付き合わされた。十数回も見て、みんなくたびれてしまう。それでも彼女は通い続けた。
近眼だった彼女は、前の席で映画を見る。それをいいことにアズナブールさんは後ろで居眠りしていた。ある日、それがばれてしまった。
「あんた、眠ってたわね。もう連れてってやらないから」
「友人から大いにうらやましがられましたよ」とアズナブールさんは笑う。
46年から8年間、ピアフといっしょに暮らした。ピアフはアズナブールさんを「あんた」と呼んでいる。しかし彼は、とうとう最後まで「ピアフさん」としか呼べなかったという。
「あんなすごい人を、若造だった私がどうして「おまえ」なんて呼べますか」
20世紀は女性の自立の時代だといわれる。好奇心や非難の目にさらされながらその道を切り開いたのは、歌手や女優に多かったような気がする。ドイツにはマレーネ・ディートリヒがいた。米国ではビリー・ホリディ。日本では淡谷のり子・・・・。
中でもピアフは別格だろう。
60年、パリのしにせ劇場「オランピア」が倒産しかけた。劇場主に泣きつかれ、ピアフは出演を承諾する。公演は連日超満員で、3ヵ月休みなしのロングランとなった。オランピア劇場は今の金額で約8億円を売り上げ、倒産をまぬがれる。
彼女は、自分の声ひとつで8億円を稼ぎだせる女性だった。
死の1年前、18も年下のテオ・サラボと結婚する。46歳のときだ。
彼女はさびしがり屋だったから、とアズナブールさんはいう。
ピアフは自分を、美しくない女だと思い込んでいた。自分を称賛してくれる男がいてほしかった。自分を笑わせてくれる人がほしかった。
1963年10月7日、南仏で病気療養中の彼女をアズナブールさんが見舞った。
「1時間ほど話し、さよならといって部屋を出た。すぐまたドアを開けて冗談をいったのです。彼女は上段が大好きでしたからね。ドアの向こうで彼女が笑いころげているのが聞こえた。それが最後でした」
3日後、彼女は死んだ。
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