じじぃの「人の死にざま_77_ジョン・ロックフェラー」

ジョン・ロックフェラー2世 - あのひと検索 SPYSEE
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John D. Rockefeller - A Short Biography 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=_y7XbLri4ZE
ジョン・ロックフェラー ウィキペディアWikipedia) より
ジョン・デイヴィソン・ロックフェラー・シニア(1839年7月8日-1937年5月23日)は、アメリカ合衆国の実業家。スタンダード・オイルを創設した。その無慈悲な営業戦術でロックフェラーは同社を世界最大の石油会社に育て、個人の資産を蓄積した。彼は後にその巨額の資産を慈善事業に費やした。
【慈善活動と遺産】
ロックフェラーは強いバプテスト信仰に従い慈善事業への寄付を常に行ったが、その評判は事業活動を行っていた間は芳しくなかった。彼は1910年3月3日に事業管理からの引退を公表し、慈善活動に没頭した。彼はその死までに約5億ドルを慈善に投じ、相続税を免れた。彼は初期の科学的な医学研究への最大の個人的後援者として著名である。彼は1890年にシカゴ大学を創立し、1901年にはニューヨークにロックフェラー医学研究所(現在のロックフェラー大学)を創立した。また1902年には一般教育委員会、1913年にはロックフェラー財団、1918年にローラ・スピールマン・ロックフェラー記念研究所を設立し、同様に他の機関にも多くの寄贈を行った。彼の500万ドルの寄付はグレート・スモーキー山脈国立公園設立の支援となった。
ロックフェラーは自らの一族に莫大な生前贈与を行い、とりわけ息子のジョン・D・ロックフェラー・ジュニアには多くを与えた。結果として一族は20世紀のアメリカで最も豊かで最も影響力を持つ一家となった。彼は1937年にフロリダ州のオーモンド海岸で死去したが、そのとき巨額の財産のごく僅かしか持っていなかった。
ロックフェラーの孫、ネルソン・ロックフェラーはジェラルド・フォード大統領の下で副大統領に就任し、もう一人の孫ウィンスロップ・ロックフェラーはアーカンソー州知事に就任した。彼の曾孫ジョン・ロックフェラー4世は現在アメリカ合衆国上院議員である。 ヨーロッパで人気のあるディズニーキャラクターのジョン・D・ロッカーダックは、ロックフェラーの慈善事業に因んで命名された。ロッカーダックは通りにいる人たちに光る新しい硬貨を分け与える習慣を持っている。

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朝日新聞社 100人の20世紀 下 2000年発行
ジョン・デイヴィソン・ロックフェラー  【執筆者】坂井敏晃 (一部抜粋しています)
食料の仲買をしていたジョン・デイヴィソン・ロックフェラーは石油の精製に目を付けた。「価格さえ安定すれば、大もうけできる」。
仲間のヘンリー・フラグラーが、鉄道会社からリベートを取ることを思いついた。運賃が安くなる分、売値が下げられる。それだけ同業者より優位な立場に立てる。
「毎日、貨車60両分の原油をお宅に運ばせる。その代わり、運賃を割り引かないか」
運賃は、油田地帯から、精製工場があるクリーブランドまで約200キロが1バレル42セントだった。そのうちの7セントを払い戻す。クリーブランドから東海岸まで約1000キロでは、2ドルの運賃の50セントを払い戻す。
鉄道会社は、安定した大口契約に飛びついた。しかし彼らも抜け目ない。逆にこう持ちかけたてきた。
「鉄道同士が提携し、少数の大手製油会社と連合します。他の製油業者や原油生産者は外します」
鉄道各社が手を握り、彼の会社を使って石油業界を支配しようとしたのだ。南北戦争の後、石炭の値崩れに乗じて探鉱を買収したときと同じ手口である。ロックフェラーはフラグラーにささやいた。
「鉄道側に主導権を握らせてはいけないぞ。後でかならず運賃をつり上げてくる」
彼は鉄道各社間の疑心を利用し、自分が輸送量を割り振る。いつの間にか「密約」の主導権を握ってしまった。
商売ではロックフェラーの方が一枚上だった。
この密約はもれて失敗した。しかし彼はひるまず、個別に次々と新たな密約を結んでいく。さらに鉄道や銀行の幹部を引きこみ、同業者を買収する戦術に出た。
クリーブランドを手はじめにニューヨーク、そして全米へ、抵抗する相手には徹底した値下げ競争をしかけた。
彼が率いたスタンダード石油会社は毛嫌いされる。
「スタンダードは獲物を頭からのみ込む大ダコだ」
しかし彼は気にしなかった。石油を安定供給することが社会の進歩につながる。それは効率のいい大組織が必要だと信じていた。
19世紀末までに、ロックフェラーは石油精製と販売で全米の8割、原油生産で4割を押さえる。石油価格はスタンダード社の買い取り価格が標準になった。
ニューヨークのロックフェラー・センターは長男ジョンが合計14の高層ビルを建てて開発した。
最も高いのがGEビル。その最上階に近い5600室に、孫のデービッドのオフィスがある。チェースマンハッタン銀行の頭取・会長を長く務めた人物だ。彼は祖母の「戦い」をこう振り返る。
「祖母はいろいろ非難されたが、反論しなかった。石油企業を統合し、組織化するのは米国のために正しいと信じていたのです。結果として、祖父がしたことはエネルギーのコストを引き下げ、米国経済の拡大につながったのですから」
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自動車や飛行機が登場し、社会の必需品として発展を始めた。船さえも石炭から石油に切り替える。本格的な「石油の世紀」が幕を開けた。需要は日増しに高まった。
旧スタンダード系の石油関連企業群は大きく成長する。株価は跳ね上がり、引退したロックフェラーが持つ株券は、途方もない価値を持つことになった。
ロックフェラー研究者の作家、ロン・チェーノーはいう。
「彼の純資産は、1913年には9億ドルに達しました。これは当時の米国の国民総生産の2パーセント以上に匹敵する。今の価値に換算して約1900億ドル(約23兆円)に相当します」
この年、ロックフェラーは財団をつくり、資産の3分の1近い2億5000万ドルを寄付した。財団の基本財産は今、30億ドルを超す。
ケネディ政権の国家次官補だったフィリップス・タルポット氏は一族と親しい付き合いがある。
「ロックフェラーは、同情や哀れみで慈善の金をほどこすのは大嫌いでした。専門家に案件を審査させ、有意義だと認めたものだけに必要な助成金を出す。そういう基本パターンをつくったのは彼でした」
孫のデービットはロックフェラーが寄付を始めたのは母エリザの影響だったという。
「祖父は母親から、少しでも収入があったら、その一部を協会に寄付するように教えられて育った。子供のときの会計ノートに、寄付の記録が残っています」
日本も財団の恩恵を受けている。関東大地震で焼失した東京帝大の図書館を復興するため、当時の金で400万円の寄付があった。公衆衛生院や慶応大医学部予防医学教室、聖路加病院看護学校・・・・。
野口英世はロックフェラー研究所で黄熱病の研究を完成させた。太平洋戦争後は、デービットら孫の世代が日本との交流につくした。
昭和天皇と、いまの天皇が訪米したときにニューヨーク郊外のロックフェラー邸を訪れているのも、こうした歴史があるからだろう。

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ジョン・ロックフェラーの言葉
「お金の奴隷になるのはやめることにした」
「金を奴隷として使ってみることにしよう」