じじぃの「人の死にざま_742_C・カールソン」

チェスター・カールソン - あのひと検索 SPYSEE
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Xerox 914 - The World's First Plain Paper Copier 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=9xZYcWsh8t0
Historia de Xerox - Chester Carlson 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=UJD-xrejMsU
チェスター・フロイド・カールソン フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
チェスター・フロイド・カールソン(Chester Floyd Carlson、1906年2月8日 - 1968年9月19日)はアメリカ合衆国の物理学者、発明家、弁理士で、ワシントン州シアトルで生まれた。
謄写版を使った湿式ではなく、乾式複写で使われる電子写真法を発明したことで知られる。カールソンの発明した製法は後にゼログラフィと命名され、「乾式複写」の代名詞となった。
ゼロックス
1948年10月22日、スライドガラスの文字を初めて複写した日から10年目のこの日、Haloid Company はゼログラフィを初めて一般に公表した。そして1950年、最初のコピー機 Haloid Xerox Copier を発売。1950年代、核開発競争において電子写真法の重要性が認識され、同社は国防省から多額の研究助成金を受け取るようになった。どんどん改良がなされていき、1959年クイーンズ区の Jackson Heights で Xerox 914 を生み出した。それは普通紙を使えるボタンを押すだけの簡単な操作が可能な世界初のコピー機で、会社が計画していた総売り上げ台数をたった6カ月で売り切ってしまった。1981年、カールソンは発明家の殿堂入りを果たした。
【晩年】
カールソンは財産の多くを慈善活動に費やし、1億5000万ドル以上を何らかのチャリティに寄付している。1968年9月19日、ニューヨークの映画館で心臓発作を起こし、死去。彼の遺産の一部は、NYCLU(ニューヨークの人権擁護団体)やバージニア大学でのイアン・スティーブンソンの研究(前世、転生などの研究)に遺贈された。

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『世界のヒット商品はどんな「ひらめき」から生まれたの?』 スティーブン・D. ストラウス/著、飛田妙子、萩岡史子/翻訳 主婦の友社 2003年発行
ゼロックスしてくれる」。夢がかなう魔法の製品を求めて (一部抜粋しています)
「これ、コピーしてくれる」などと気やすくいえなかった時代、複写しようと思えば青写真をとるか引き写しするしかなかった。いま何人の人が覚えているだろうか。そんな時代を終らせた発明家と起業家の話である。
チェスター・カールソンは一人っ子で両親を早く亡くした。そのため、小さいときから機械などをいじって一人遊びをして過ごし、自力で学費を稼いで、1930年カリフォルニア工科大学で物理学の学位を得た。物理系の仕事に就くことができず、ニューヨーク市で小さなエレクトロニクス企業の特許課に就職、特許の申請書を整理する仕事をした。特許の申請書というのは、非常に長い文書で、その図面や特許明細書を写しとるというカールソンの仕事はうんざりするほど退屈だった。毎日の仕事に満たされないものを感じ、すでに発明の才を現し初めていたカールソンは、もっといい方法があるに違いないと考えるようになった。
彼は写真、光学物理、紙の処理、印刷技術について勉強し始めた。何ヵ月も研究を続けた結果、光が物質の電気伝導度を高める性質、すなわち光伝導性というものに行き当たった。光を使って例えば陰のような像を作り、その像を光伝導を利用して紙に写し取ることができればコピーを作る過程がもっと効率よくなるだろう。昼は特許課で働き、夜は法律学校に通いながら、時間をやりくりして、3年かけて「電子写真」なるものを完成させた。1938年10月22日(10-22-38)、アストリアのアパートにある粗末な実験室で、ぼやけてはいるが、しっかりと「10-22-38Astoria」と読める電子写真のコピーを作り出した。47年後の1985年、その紙はスミソニアンの常設展示品となった。
しかし1938年当時、大恐慌の真っただ中にあって、チェスター・カールソンは夢ばかり追っているわけにもいかず、食べるのがやっとという状態で、製品を市場に出すこともままにならなかった。それでも1939年、彼は数百ドル(当時としてはかなりの額だ)をかき集め、原型となる機械を作った。しかしこれは失敗だった。もう1台作ってみたが、これもすぐに壊れた。そして人びとの関心はもっぱら戦争に向けられるようになり、カールソンは手動の感光版を使った実験に戻った。
自分の発明に投資してくれる人、アイデアを買ってくれる人を求めて、カールソンはそれから数年、GEやRCAIBMといった会社の人と会ったが、カーボン紙でこと足りるのに、どうしてそんな機械が必要なのかと断られた。何年もの努力が実らず、ついに経済的に追い込まれて離婚にいたった。その後カールソンは「バッテル記念研究所」というこじんまりした民間財団の援助を受け、1944年コロンバスにある会社と特許使用契約をかわし、研究開発を続けることになった。
彼が待ち望んでいたきっかけは1947年にやってきた。ハロイドという小さな写真会社の社長ジョー・ウィルソンが主任エンジニアのジョン・デサーともども、以前『ラジオ電子エンジニアリング』という雑誌で読んだ電子写真の機械を見に、はるばるニューヨーク州ロチェスターからオハイオまでやってきたのだ。チェスター生まれのウィルソンはコダック最大の製造工場コダック・パークのお膝元で育った。男の子なら当時はベーブ・ルースジョー・ディマジオにあこがれるのが普通だが、ウィルソンはジョージ・イーストマン・コダックのように、生活に変化をもたらし、世界をあっといわせるような仕事をすることを夢見ていた。
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縦9インチ横14インチの書類の複写が可能なことからこの機腫を「914」と名付け、開発に7500万ドルをかけた。今の基準ではたいした額ではないかもしれないが、ハロイドの1950年から1959年までの総収入をゆうに超えていた。ついに14年の歳月をかけ、初の実用複写機が生まれた。チェスター・カールソンがあの有名な「10-22-38Astoria」というコピーを作ってから21年後のことである。

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