じじぃの「人の死にざま_76_緒方・洪庵」

あの人に会いたい 緒方洪庵 SPYSEE
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緒方洪庵 ウィキペディアWikipedia) より
緒方洪庵(おがたこうあん、文化7年7月14日(1810年8月13日)-文久3年6月10日(1863年7月25日))は日本の武士・足守藩士、医師、蘭学者である。大坂に適塾を開き、人材を育てた。
諱は章、字は公裁、号を洪庵の他に適々斎・華陰と称する。
【人物論】
洪庵の功績として、適塾から福澤諭吉大鳥圭介橋本左内大村益次郎、長与専斎、佐野常民、高松凌雲など幕末から明治維新にかけて活躍した多くの人材を輩出した。
また、日本最初の病理学書『病学通論』を著した。種痘を広め、自らも幼少の頃に患った天然痘の予防に尽力。安政5年(1858年)のコレラ流行に際しては『虎狼痢治準』と題した治療手引き書を出版し医師に配布するなど日本医学の近代化に努めた。なお、自身も文化14年(1817年。8歳)のときに天然痘にかかっている。
洪庵の人柄は温厚でおよそ人を怒ったことが無かったという。
また、洪庵には次のようなエピソードがある。福澤諭吉適塾に入塾していた時に腸チフスを患った。中津藩大坂蔵屋敷で療養していた折に洪庵が彼を手厚く看病し治癒した。諭吉はこれを終生忘れなかったそうである。このように他人を思いやり、面倒見の良い一面もあった。
洪庵は西洋医学を極めようとする医師としては珍しく漢方にも力を注いだ。これは患者一人一人にとって最良の処方を常に考えていたためである。

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『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
緒方洪庵 (1810-1863) 53歳で死亡
大阪に蘭学の「適塾」をひらき、大村益次郎福沢諭吉、樫本佐内、大島慶介、長与専斎など、無数の英才を育てた洪庵は、江戸城奥医師を命じられ、文久2年8月出府した。それから十ヵ月目の文久3年6月10日、下谷御徒町の医学頭取屋敷で昼寝からさめたとき、突如大喀血を起し、その血のために窒息死した。
福沢諭吉はいう。
「急使いに私は実に肝をつぶした。その23日前に先生の所に行って、チャンと様子を知っているのに、急病とは何事であろうと、取るものも取りあえず即刻うちを駈け出して、その時分には人力車もなにもありはしないから、新銭座から下谷まで駈けづめで緒方のうちに飛び込んだところが、もうこときれてしまったあと、これはマアどうしたらよかろうと、まるで夢をみたようなわけ」

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大阪散策 緒方洪庵 適塾 y&m独り言
http://kaito1992.at.webry.info/200610/article_6.html
【次代への名言】11月7日・緒方洪庵 2008.11.7 MSN産経ニュース
「医の世に生活するは人の為のみ、唯(ただ)おのれをすてゝ人を救はんことを希(ねが)ふべし」緒方洪庵(こうあん)『扶氏医戒之略』)
 緒方洪庵蘭学者で、江戸時代後期における最高の医師。福沢諭吉大村益次郎橋本左内ら時代をになった門弟を輩出した適塾(適々斎塾)の創始者でもある。冒頭は、ドイツの名医、フーフェラント(扶氏)が著した『医師の義務』を洪庵が要約したものだが、彼の「医師道」を最もよくいいあらわしている。
 「ペリー来航」の4年前、旧暦で嘉永2(1849)年のきょう、洪庵は大坂(大阪)で当時、貴重だった種痘用の痘苗(ワクチン)を手に入れる。これが大坂のこどもたちを天然痘から救い、洪庵の弟子によって全国に広まる種痘法の「苗」となるのだが、彼はこのとき、誓う。「これはただ仁術のため、世の中のためのもの。たとえ種痘によって謝礼金を得たとしても、自分の利益とせず、さらに仁術を行うために使うこととする」
 洪庵は、手紙をよく「為道為人(道のため人のため)」「為国為道(国のため道のため)」と結んだ。また『扶氏医戒之略』には「不治の病人を棄(す)てて省みざるは人道に反す。常にその命を延ばすことを思うべし」などという一文もある。
 これらの貴い精神はどこまで継承されているのだろう。医療をめぐる不祥事や事件が起こるたびに、思う。
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/081107/acd0811070340001-n1.htm