じじぃの「人の死にざま_73_中田・正一」

中田正一 - あのひと検索 SPYSEE
http://spysee.jp/%E4%B8%AD%E7%94%B0%E6%AD%A3%E4%B8%80/1041312/
中田正一 ウィキペディアWikipedia) より
中田正一(1906年-1991年)はNGOである「風の学校」の創設者。農学博士。
【風の学校】
千葉県などで、伝承される古式の井戸掘り技術である「上総掘り」を中心に、風車や揚水技術などの生活基盤の整備技術と農業技術を学ぶための学校である。適正技術といって発展途上国の物資のない状況でもすぐに活用できる技術に重きを置いた。卒業生は100名を超え、その卒業生は、培った技術を発展途上国の現地の人々だけでなく、日本の国際協力を志す後輩にも伝え、その育成にも努めている。

                                    • -

『世界を変える100人の日本人!』中田正一(なかたしょういち)手掘りの井戸で、本当の海外支援に命を賭けた男 2009年8月28日 テレビ東京
第二次大戦後、農林省で日本の農業技術指導に力を注いだが、工業化と経済成長をまい進する日本の農業に失望し、海外での農業技術指導に情熱を傾けるようになる。1963年、アフガニスタンで1年半に渡る農業教育指導に従事。それ以来、飢えと渇きにあえぐ世界各地を飛び回り、1967年、農業を中心とした国際協力の人材育成を行うための私設団体として、「国際協力会」(※後の『風の学校』)を設立。1974年に農林省を定年退職した後、バングラディッシュソマリアをはじめ、東アフリカ5ヵ国などの農業支援に従事。そこで行き場を失った難民たちの凄惨な現実に直面。
「水が現地になければ意味がない。飢えと渇きに苦しむ人々に最も必要な命の糧は水だ!」と、78歳にして始めて、手掘りの井戸掘りに挑戦。以後『風の学校』の教え子たちと共に、数多くの井戸を掘り続けた。モノやカネに頼らず、現地の人と共に汗を流して危機を乗り越え、援助の日本人がいなくなった後でも、継続されていくことが大事と考える彼の姿勢は、現代社会に対する挑戦でもあった。ソ連軍の侵攻で無残にも破壊し尽くされ、荒野と化していた第2の故郷アフガンにも、井戸を掘ろうと、モンゴル系アフガン人に変装し、三度、潜入を試みたが失敗に終わった。『「愛」の反対は「憎しみ」ではなく「無関心」。自分さえ豊かに生活できれば、他はどうであろうと一切無関心、飽食を重ねて、マネーゲームに興じる時代。これは一番悪い社会だと思う』・・・と、80歳を過ぎても世界を飛び回り、命をかけて海外協力に情熱を燃やした。彼の座右の銘は「助けることは助けられること」・・・
アフガンから帰った1991年、志半ばで「脳腫瘍」に倒れ、同年10月に死去。享年85だった。
http://www.tv-tokyo.co.jp/100japan/backnumber/index.html
中田正一の言葉
『「愛」の反対は「憎しみ」ではなく「無関心」。自分さえ豊かに生活できれば、他はどうであろうと一切無関心、飽食を重ねて、マネーゲームに興じる時代。これは一番悪い社会だと思う』