じじぃの「ハプスブルク家の女帝」考

Osterreichischer Militarmarsch "Maria Theresia-Marsch" 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=I5MDwAk_spE&feature=related
ハプスブルク帝国 三つの愛の物語 動画 TV小僧
http://veohdownload.blog37.fc2.com/blog-entry-1455.html
NHK特集 「ミツコ 二つの世紀末」 1987年 NHKアーカイブス
【主な出演者】吉永小百合
1895年(明治28年)、国際結婚によってヨーロッパの伯爵夫人となった青山光子。
その生涯と家族がたどった数奇な運命を、明治時代から現代(昭和)、激動するヨーロッパの歴史の中でたどるドキュメンタリードラマシリーズ。ミツコの子どもたちは拘留、亡命、難民と、苦難をなめるが、その子孫たちはたくましく生きていた。
http://cgi2.nhk.or.jp/archives/tv60bin/detail/index.cgi?das_id=D0009010334_00000
マリア・テレジア ウィキペディアWikipedia)より
マリア・テレジア・フォン・エスターライヒ1717年5月13日-1780年11月29日)は、神聖ローマ皇帝フランツ1世シュテファンの皇后、オーストリア大公、ハンガリー女王、ベーメン女王。オーストリアハプスブルク家最後の君主であり、彼女の子供たちの代からは正式には、夫の家名ロートリンゲンとの複合姓(二重姓)で「ハプスブルク=ロートリンゲン家」となる。
一般に「女帝」と呼ばれ、実態も女帝そのものであったが、実際には皇帝に即位したことはない。後述するようにハプスブルク家の領国と家督を相続したのはマリア・テレジアであるため、彼女の肖像画には(ハプスブルク家が事実上世襲していた)神聖ローマ皇帝の帝冠が添えられている場合が多く、当時としても、少なくとも領国内では「女帝」視されていた。正式には皇后でしかない彼女がこのように扱われる理由としては、次のような点が考えられる。
【政治家として】
オーストリアを強国にすべく、封建制度に縛られず様々な改革を行った。
・小学校の新設
 他国に先駆け、全土に均一の小学校を新設。義務教育を確立させた。全国で同内容の教科書が配布され、各地域それぞれの言語で教育が行われた。その結果国民の知的水準が大きく上昇した。
・徴兵制度の改新
 軍事行政委員が設置され、軍税徴収に関する等族の介入が排除された。1762年には軍事機構が宮廷軍事庁の下に統括され、宮廷軍事庁が最高決定機関となった。また、一般徴兵制が採用された。この徴兵制は全国民の無差別の兵役義務を承認しており(実際は身分差別あり)、農民出身であっても給料を得られるようになったことで、兵士達が安定した生活を保証され、オーストリアの軍事力は格段に上がった。

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『人類の歴史200万年』 READERS DIGEST 1980年発行 (一部抜粋しています)
女帝たち
オーストリアの女帝、マリア・テレジアは先取の気性に富み、好戦的でもあった。1772年の第1回ポーランド分割の際に、フリードリヒはマリア・テレジアのことを、「涙にかきくれながら、彼女も奪いとった」とのべた。この分割では、ロシア、プロイセン、そしてオーストリアが領土をつかみどりしてのである。けれども、マリア・テレジアは国家行政を近代化し、奴隷制の抑圧を緩和し、立法上の改革を導入した。息子のヨーゼフ2世は彼女の志を継いだ。1781年と1787年、彼は刑法典を発布した。これは拷問と死刑を廃止したものである。立法上の改革におけるオーストリアの模範はプロイセンであり、その体系はナポレオンによって、フランスで受けつがれることになった。

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ハイビジョン特集 ハプスブルク帝国 第2回「女帝マリア・テレジア NHK BS HI 9月18日
【朗読】夏木マリ 【語り】高橋美鈴
ヨーロッパに広大な領土を持ち、「太陽の沈まない王国」とたたえられたハプスブルク帝国の歴史を、さまざまな宝物とともに見ていくシリーズの2回目。18世紀、ハプスブルク家の歴史で初めて女性君主となったマリア・テレジア。彼女が多くの障害を乗り越えて権威を確立し、シェーンブルン宮殿などけんらんたる文化を花開かせていくとともに、帝都ウィーンを発展させていった過程を描く。
http://www.nhk-ondemand.jp/goods/G2011028193SA000/
どうでもいい、じじぃの日記。
1600〜1700年代、ヨーロッパはハプスブルク家が支配し、中東はオスマン・トルコ帝国、インドはムガール帝国、中国では明が支配する世界であった。
30年以上も前にテレビで、ハプスブルク家に嫁いでいった青山光子の生涯を描いたNHKスペシャル「国境のない伝記」を観た。
吉永小百合さんがクーデンホーフ光子の足跡を辿るというドキュメンタリー番組だった。
明治の半ば、光子がハプスブルク家に嫁いで行ったときはハプスブルク家がほとんど領土を失い、没落の時代だったが、光子が産んだ7人の子どもに、今のヨーロッパ(EU)を作ったリヒャルト・クーデンホーフ・カレルギーがいた。
リヒャルト・クーデンホーフ・カレルギーは映画『カサブランカ』に出てくる、ナチスに追われる「ヴィクター・ラズロ」のモデルであると言われている。
9/18、NHK ハプスブルク帝国 第2回「女帝マリア・テレジア」を観た。
オープニングで放牧された馬が出てくる。かって、この馬を自由に使いこなした女性がいたのだ。
11世紀にスイスの1領主にすぎなかったハプスブルク家がウィーンに居を構えた。それがヨーロッパに広大な領土を持ち、「太陽の沈まない王国」とたたえられたハプスブルク帝国となった。
しかし、18世紀になるとプロイセンが帝国を脅かすようになった。そのような時期にマリア・テレジアが女帝として君臨した。その当時、ウィーンはヨーロッパ最大の都市で人口は15万であったとされる。
マリア・テレジアは16歳で、ロートリンゲンのフランツ・ステファンと結婚した。
女帝として君臨した映像に、いななく馬に跨っている彼女の姿があった。
マリア・テレジアは農民、市民に分けへだてなく義務教育を行うなど、いろいろな改革を行った。それはフランスにも受け継がれ、フランス革命の礎になったのだった。
マリア・テレジア〜レオポルト1世の時代、ウィーンはモーツアルトハイドンベートーヴェンシューベルトが活躍した黄金の時代だった。
遠いヨーロッパのハプスブルク家の物語。
光子によってハプスブルク家のロマンが膨らんでいくのであった。
それにしても、いななく馬に跨っている女性とはすごいなあ。
東京・六本木の国立新美術館で9月25日〜12月14日間、ハプスブルク展が開催されています。
http://www.habsburgs.jp/