じじぃの「人の死にざま_54_松尾」

松尾芭蕉 - あのひと検索 SPYSEE
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奥の細道 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=0W862Jp9xxA&feature=player_embedded#
NHKアーカイブス「シリーズ・わたしが選ぶあの番組(2) 作家・森村誠一さん」 (追加) 2011年10月23日
【出演】作家 森村誠一さん(作家) 【司会】桜井洋子
各界で活躍する著名人がNHKアーカイブスの中から選んだ番組を語るシリーズの2回目は作家の森村誠一さん(78)。
森村さんが選んだ番組は「おくのほそ道〜池田満寿夫 みちのく紀行〜」(1989年放送・45分)。「人間の証明」など骨太な作品で知られる森村さんが近年、取り組んでいるのが「写真俳句」。取材や旅行で訪れた土地で写真を撮り、俳句を作っている。40年余の作家活動を経て、今、あらためて芭蕉の俳句に文学表現の原点を見出し、簡潔な表現形式の中にいかにメッセージを込められるかを追求している。
番組では、芭蕉が旅した「おくのほそ道」の風景を、震災後の今、あらためて見つめながら、かつて何度も訪れたという被災地・みちのくへの思いを交えて語る。
http://www.nhk.or.jp/archives/nhk-archives/past/2011/111023.html
松尾芭蕉 出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
松尾芭蕉寛永21年(1644年)-元禄7年10月12日(1694年11月28日))は現在の三重県伊賀市出身の江戸時代前期の俳諧師である。幼名は金作。通称は藤七郎、忠右衛門、甚七郎。名は宗房。俳号としては初め実名宗房を、次いで桃青、芭蕉(はせを)と改めた。蕉風と呼ばれる芸術性の高い句風を確立し、俳聖と呼ばれる。
芭蕉が弟子の河合曾良を伴い、元禄2年3月27日(1689年5月16日)に江戸を立ち東北、北陸を巡り岐阜の大垣まで旅した紀行文『奥の細道』がある。
【著名な句】
・古池や蛙飛びこむ水の音(ふるいけや かはずとびこむ みずのおと)
・名月や池をめぐりて夜もすがら(めいげつや いけをめぐりて よもすがら)
・夏草や兵どもが夢の跡(なつくさや つわものどもが ゆめのあと):岩手県平泉町
・閑さや岩にしみ入る蝉の声(しずかさや いわにしみいる せみのこえ):山形県立石寺
・五月雨をあつめて早し最上川さみだれを あつめてはやし もがみがわ):山形県大石田町
・雲の峰いくつ崩れて月の山(くものみね いくつくずれて つきのやま):山形県・月山
・荒海や佐渡によこたふ天河(あらうみや さどによこたう あまのがわ):新潟県出雲崎町
・花の雲鐘は上野か浅草か(はなのくも かねはうえのかあさくさか):東京都
・初しぐれ猿も小蓑をほしげ也(はつしぐれさるもこみのをはしげなり):三重県伊賀市
・旅に病んで夢は枯野をかけ廻る(たびにやんで ゆめはかれのをかけめぐる):辞世

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高橋治のおくのほそ道ほか シリーズ古典 高橋治著 講談社
一 序章 (一部抜粋しています)
 月日は百代の過客(かかく)にして、行きかふ年もまた旅人なり。舟の上に生涯を浮かベ、馬の口とらへて老いを迎ふる者は、日々旅にして、旅を栖(すみか)とす。
松尾芭蕉のいちばんの傑作だといわれる『おくのほそ道』は、こう書き出されている。
源氏物語』『平家物語』『方丈記』『徒然草』などの書き出しが、たくさんの人たちに愛されて、暗暗唱されたように、『おくのほそ道』の書き出しがわすれられないという人も多い。
やさしい現代語に大胆に書きなおすと、こういうことを芭蕉はいいたかったのではないかと考えられる。
 年、月、日といった時間は、限りないひろがりと、永遠につづく宇宙から見れば、旅行者のようなものだ。きては去り、去っては新しいのもがおとずれる。人間も時間と似たようなもので船頭も馬子(まご)も、舟や馬を相手にして、人生という時間の中を旅していく。つまり、旅の中に生活しているともいえるだろう。
 古人も多く旅に死せるあり。
古人は、もう遠い昔に亡くなった人という意味で、芭蕉はだれとだれだとは書いていない。しかし、芭蕉の生き方や、芭蕉の作品に見られる影響から、中国の李白杜甫、日本の西行や、宗祇(そうぎ)などの詩人たちだと考えられている。
芭蕉はこれらの詩人たちの作品をひじょうに愛し、自分も詩人として、一歩でもこうした先人の世界に近づきたいと努力した。
たまたま、これらの人々は旅行中に死んだ。芭蕉も『おくのほそ道』の旅をぶじに終えて、2年ほど関西に住んだのち、江戸に変える。しかし、3年近く江戸にいただけで、元禄7(1694)年夏、九州を目ざす旅に出発し、そのとちゅう、大阪ではげしい下痢をする病気にかかって死ぬ。
あこがれた古人たちと同じ旅行中の死だった。
 旅に病んで夢は枯野をかけめぐる
が辞世の句で、「旅」のことばが句の中にあるとおり、ある意味では、旅こそ人生であるとの芭蕉の人生観が、そのまま全(まっと)うされた生涯だった。
時間は宇宙の中の旅人、人生は時間をさすらう旅人といっているとおり、芭蕉は一生のあいだになん度も旅をして、そのことを書きつづった多くの紀行文の傑作を残した。
野ざらし紀行』『鹿島紀行』『笈(おい)の小文』『更科紀行』などである。その『野ざらし紀行』の旅に出かけるときに、芭蕉はつぎの句を残している。
 ざらしを心の風のしむ身かな
ざらしとは、どこのだれとも知れない人が、死んで白骨になり、野天にさらされているという意味である。つまり、自分もいつそんな死にかたをするかわからないとの覚悟が句に詠みこまれている。
芭蕉の時代の旅は、旅行手段や宿泊設備もととのっていないし、通信方法、医療施設もごく貧弱なものだった。そのうえ、山越えなどの旅の難所には、数多くの盗賊の伝説が残っていることからもわかるとおり、つねに危険と背中合わせであることを覚悟しなければならない。
それでも芭蕉は旅へのあこがれにつき動かされ、晩年の約10年のあいだに旅をくりかえし、『おくのほそ道』をふくめた5冊の紀行文を残すことになった。
『おくのほそ道』がこうつづけられていることからもわかるとおり、芭蕉にとっての旅は、人生をどう生きるかという哲学のようなものだったと考えられる。

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【次代への名言】7月13日・松尾芭蕉 2009.7.13 MSN産経ニュース
「夏草や兵(つわもの)どもが夢の跡」松尾芭蕉
『おくのほそ道(奥の細道)』の旅に出た俳聖、松尾芭蕉が奥州・平泉(現・岩手県平泉町)に入り、国宝・金色堂をもつ中尊寺を訪れたのは、旧暦で1689(元禄2)年の5月中旬のことだった。彼はまず「三代の栄耀一睡(えいよういっすい)の中(うち)」と11世紀末から約1世紀にわたって「北の巨人」として君臨した奥州藤原氏をしのぶ。そして冒頭の有名な句を詠んだ。
「抜苦与楽(苦を取り、安楽を与えること)、普(あまね)く皆平等なり」。中尊寺の落成式で朗読されたとされる願文の一節である。命あるものはすべて、浄土にゆける−というこの悟りは、創建者である「初代」の藤原清衡(きよひら)が、数々の骨肉の争いを経て、得たものだという。これは、世界遺産の登録を待つ「平泉の文化遺産」を貫く思想でもある。
清衡は東北の地に、中央に対抗しうる政治・経済力と、当時、東アジアで最先端をゆく「黄金文化」の礎を築いた。彼はぶれることなく、この中世における「地方再生」に一代をかけ、やはり旧暦で1128年のきょう(16日説もある)、没した。
「仏号(仏の名)を唱え、眠るが如(ごと)く閉眼し訖(おわ)(終)んぬ」。そう、『吾妻鏡(あずまかがみ)』は彼の大往生を伝えている。
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/090713/acd0907130402000-n1.htm
松尾芭蕉の言葉
物言えば唇寒し秋の風
意味。人の悪口を言えば、後味の悪い思いをするということ。