じじぃの「人の死にざま_47_黒澤・明」

黒澤明 - あのひと検索 SPYSEE
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Akira Kurosawa A summery Part 1 動画 YouTube
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Akira Kurosawa - Seven Samurai (Shichinin no Samurai) (1954) 動画 YouTube
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対談 黒澤明vs北野武 part2 YouTube
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黒澤明 絵コンテ Google 検索
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黒澤明 ウィキペディアWikipedia)より
黒澤明(1910年3月23日 - 1998年9月6日)は、日本の映画監督。小津安二郎溝口健二成瀬巳喜男らと共に、世界的にその名前が知られた日本映画の巨匠の一人。日本では「世界のクロサワ」と呼ばれた。米国映画芸術科学アカデミー会員。栄典及び称号は、従三位文化勲章国民栄誉賞文化功労者・東京都名誉都民。
88歳で死亡。
【世界的な影響】
日本国外の映画作家らへの影響は計り知れず、直接作品の中で模倣されたものだけでも枚挙に暇が無い。ジョージ・ルーカスは代表作『スター・ウォーズ』の登場キャラクターを『隠し砦の三悪人』から着想したと述べている(そもそも『スター・ウォーズ エピソード4/新たなる希望』のストーリー自体が『隠し砦の三悪人』に酷似しており、ファーストシーン・ラストシーンともそっくりである)。
スティーヴン・スピルバーグの『未知との遭遇』の砂嵐の中からジープが現れる場面は『蜘蛛巣城』、『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』で主人公が後ろ姿だけで顔を見せない冒頭は『用心棒』、『シンドラーのリスト』のパートカラーは『天国と地獄』、『プライベート・ライアン』のオマハビーチの戦闘シーンは『乱』を模したと言われる。
フランシス・フォード・コッポラの『ゴッドファーザー』のファーストシーンの結婚式の場面は『悪い奴ほどよく眠る』の手法を模したといわれる。
また、『七人の侍』が米映画『荒野の七人』(ジョン・スタージェス監督)、『用心棒』が米映画『ラストマン・スタンディング』(ウォルター・ヒル監督)などに翻案された。イタリア映画『荒野の用心棒』(セルジオ・レオーネ監督)のように盗作問題に発展したケースもある。
マーティン・スコセッシは黒澤映画を名画座に通い続け鑑賞し、また実際にフィルムを手にしカットの構成を研究し尽くしたという。
技術的には、例えばサム・ペキンパー監督が得意として他のアクション映画でも多用される、アクションシーンのスローモーション撮影は、元を辿れば黒澤明の手法であり、アクションシーンを望遠レンズで撮る技法も同様である。また、雨や風、水といった自然描写の巧みさはアンドレイ・タルコフスキーのような芸術映画監督を感嘆させて影響を与えたし、『羅生門』の映像美とストーリーテリングの巧みさはフェデリコ・フェリーニが深く共感した。この映画では、どしゃぶりの雨の質感を出すために墨汁を混ぜた水を放水車で降らせる、当時の技術的タブーを破って太陽に向かってカメラを向けさせる、森の中を走るシーンを移動撮影ではなくてパニングで撮るために俳優達をカメラの周りを円を描くように走らせる、といったように視覚効果を得るため様々な工夫を凝らしている。
さらに、『ロード・オブ・ザ・リング/二つの塔』(ピーター・ジャクソン監督)の合戦シーンで、「七人の侍」の雨の中で弓を引く勘兵衛のショットがそのまま引用されていたり、『ラストサムライ』(エドワード・ズウィック監督)では雨や風、馬や屍の使い方など、黒澤映画から引用されたショットは多数に渡っている。黒澤明を尊敬しているとコメントした映画人は数知れないほどであり、主役格が『七人の侍』の影響からか7人である映画は非常に多い。
ジョン・ミリアスジョージ・ミラーロン・ハワードも黒澤映画の大ファンであり自身の作品に大きく投影されている。
クリント・イーストウッドは「クロサワは自分の映画人生の原点だ」と語っている。

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2013年9月20日テレビ朝日報道ステーション』 特集「没後15年、黒澤明監督のメッセージ」より
黒澤明 死して15年・・・直筆ノートに記された驕る現代人への警告
古舘さん、「黒澤明監督が亡くなってから15年が経ちました。あらためて黒澤さん直筆のノートを見ていくと、『ああ、長きに渡ってこのことについて、黒澤さんはずっと考え続けていたんだ』なと、いうことを見つけました」
お祭りの映像が出てきた。(避難してきた双葉町仮設住宅
祭りに参加した中年の女性、「楽しかった。やっぱりね。懐かしいからね。皆、よかったと思う」
近くに住む熊田さん(男性・67歳)。避難してきた人と接し、ある映画と監督を思い出していた。
熊田さん、「死して15年。彼が生きていたら、何を語るのだろう」
映画のシーンが流れる。
暗闇の中、富士山の噴火で空が真っ赤になり、富士山が浮き出て見える。
群衆の男、「噴火したのか、富士山が。大変だ」
群衆の女、「もっと大変だよ。あんた、知らないの? 発電所が爆発したんだよ。原子力の」
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これは1990年に公開した黒澤明監督の『夢』の中に『赤富士』という作品です。
原発が爆発し、人々が逃げ惑う。黒澤明監督が見た夢を映画化したものだ。熊田さんはこの映画の製作に関わっていました。
富士山爆発を描いた絵が出てきた。
これは黒澤明監督が描いた絵。
熊田さん、(絵の中の人々を指さして)「群衆ですね。逃げ惑う群衆です。これが富士山で、原発が爆発している。異様な始まりですね」
原発が爆発し、逃げ惑う群衆のエキストラに、指示を与える黒澤明監督。この時、78歳。
撮影が行われたのは1989年。その22年後、福島原子力発電所一号機で次々と爆発事故が起きた。
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「こんな夢を見た メモ A・K」と書かれたノートが出てきた。
埋もれていた黒澤明直筆のノート。初めてテレビで公開するそのノートのページには、率直な思いが綴られていた。
「人間は間違いばかりを起こしているのに、これだけは絶対間違いは起こさないなんて、どうして言えるんだろう。それも、もし間違いだったらおしまいだというのに、どうしてそんなことが言えるんだろう」
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「高い木に登って、自分のまたがっている木の枝で一生懸命生きている阿保に似ているね」
http://www.tv-asahi.co.jp/dap/bangumi/hst/news/detail.php?news_id=35320
『巨泉日記』 大橋巨泉/著 講談社 2000年発行 (一部抜粋しています)
黒澤監督のこわさとやさしさ
事務所の阿由葉哲哉から電話で「黒澤監督が亡くなりました」と報告が入る。88歳という高齢だが、春に久雄(長男)とゴルフをした時、お元気だと聞いていたのに−−。ボクは「天皇」といわれた"こわい"黒澤監督をまったく知らない。久雄がずっとボクの事務所に所属していたし、林寛子と結婚したときの仲人もつとめたので、いつも"やさしい"黒澤明さんだった。ただし、友人の俳優さん達からは、その"こわさ"は十分聞いていた。
しかしその"こわさ"には、まったく他意はなかったはずだ。ひたすら作品の完成度を高めるために、全スタッフに完全を求めたのであろう。テレビ界で同じような姿勢だった元NTVの井原高忠氏の下で仕事をしたボクはよく解る。「帰れ」とか「下手な芝居をするくらいなら黙って立ってろ」とか言われた人達も、結局その作品の評価とともにキャリアが上昇して行ったはずである。ほんとうに下手な人は使わない。叱ったり、怒鳴ったりしている人には愛情があるのである。そのへんの呼吸がだんだん解りにくい世の中になって来ている。
日本人でもカンヌやベニスのようなヨーロッパで評価された映画人は結構いる。しかし欧米でともに(アカデミー賞3回受賞)大きな評価を得た人は、黒澤明ただ1人である。ボクは黒澤さんの芸術性もそうだが、そのエンターテイメントとしての優秀性が大好きだった。『七人の侍』『天国と地獄』『椿三十郎』など、何回見てもおもしろかった。小説や映画は、まずおもしろくなければならない、というのがボクの持論であるが、全盛期の黒澤作品は芸術性と娯楽性を兼備した珠玉であった。
だからこれらの作品に魅せられて映画界に入ったコッポラやルーカスが、『ゴッドファーザー』や『スター・ウォーズ』をつくったのだと信じている。映画とテレビは違う。先日あれほど感動した『イングリッシュ・ペイシュント』をテレビで観たが、半分も楽しめなかった。やはり映画はカネを払って、大きなスクリーンで見るものである。そのためにはカネがかかるが、今日本で映画にカネをかける人がいない。黒澤さんの死が、日本映画の棺に最後の釘を打つことになるとしたら悲しい。合掌。
                                  (9月6日)

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『パパ、黒澤明 黒澤和子著 文藝春秋
第8章 枕許の日々 (一部抜粋しています)
まあだだよ』を公開した後、完成原稿となっていたシナリオ「海はみていた」の映画化企画が挫折しても、父に以前のように、いらだちや憤懣やる方ない怒りは見受けられない。「80を超えたら、富岡鉄斎ではないけれど、無心に遊ぶ境地で映画を撮れるようになりたい」、そう言っていた。
果たして、この血気勢んな人が、そんなふうになれるのかと、内心疑っていたのである。
確かに『夢』の頃からは、次の日の撮影を楽しみにするばかりでピリピリした空気も薄らぎ、自分の世界に入り込んでしまうこともなく、時には翌日のことを忘れて、あたかも保養中である如くにのんびりしている。
固執しなくなった黒澤明などつまらぬ、と思われる向きもあるだろうが、人には何時か達観する時がくるものなのだろうか。
人は変わる。それは成長することでもあり、齢(よわい)を重ねてゆくことでもあるのだ。
そのとき、自然に撮りたいものを撮る、その気持ちは昔から一貫していた。
「『七人の侍』を今の僕に撮れっていわれたら、もう死んじゃうよ。興味は変わるんだよ。年もとる。ずーっと同じってわけにはいかないよ。コンピュータで統計をとって、何が一番受けるかと、そんな方法もあるらしいが、僕は絶対嫌だね」と言っていた。
夢中になっている事がないと上手く生きられない質(たち)なのは、私もそっくりだから、とてもよく分かる。
篆刻(てんこく)や日本画に興じて、出資の決まらない、待ちの時間を過ごしていた。それでも中途半端はしない。暇を潰すということとは、意を異にしている。
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父の気力を、無理やり引き出すのも、忍びない。黒澤明も人間なのだ。年老いた日々を、気楽に生きてもよいではないか。父を見ていると、そんな思いがしきりと募ってくる。
世間様は、偉大な父の息子と娘には殊の外厳しい。今までもそうだった。兄は男だけに、どれほどの重みだったことだろう。わたしは365日、父の許に通った。それでも正月、家に物を取りに帰ったちょうどその折に年始の挨拶にに来た人がいて、その人から「正月に父親を1人にしておくのか」と散々にやり込まれたことがあった。でももういい、好きにさせてほしいと思った。父にとっては愛しくてしかたがない娘、娘にとっては大切でしかたない父、その2人がいるというだけのこと。私たちもただの人間なのだ。
母の13回忌を無事に済ませた。
父は88歳の誕生日、米寿の祝いを、兄、私、孫たちと楽しくすごすことができた。
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ジージ、バイバイ。また明日くるからね。元気でね」。これが、2人の永遠(とわ)の別れの言葉になってしまった。
9月6日、父は母のもとへ旅立った。

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