じじぃの「人の死にざま_46_渋沢・栄一」

渋沢栄一 - あのひと検索 SPYSEE
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プロジェクトJAPAN 「近代日本経済の基礎を築いた 渋沢 栄一」 動画 NHK
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田園調布 動画 AOL
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『世界危機をチャンスに変えた幕末維新の知恵』 原口泉著 PHP新書 2009年発行
第5章 五代将軍から渋沢栄一へ−−日本実業界の飛躍 (一部抜粋しています)
慈悲深い母のもとで血気盛んな渋沢栄一の青少年時代
渋沢栄一は、中国で阿片戦争が起こった天保11年(1840)、武蔵国榛沢郡血洗島村(現埼玉県深谷市)の生まれで、生家は豪農でした。
米や野菜、家畜の飼育などによる自給自足といいう一般農家のスタイルではなく、渋沢家の場合には、養蚕や藍玉の製造も行なっていて、これは換金商品でしたから、商工業を営んでいたということになります。
藍玉は「武州紺」と呼ばれ、染料として人気がありました。この原料となる藍葉の仕入れのため、栄一は父とともに旅に出るなどしていたようです。
みずからも製造すると同時に、周囲からも集荷して販売するという産地問屋でもあったため、渋沢の生家は、農家というよりは商家といったほうが妥当でしょう。
さらには、村人を相手に質商も営んでいたとされます。つまり栄一は、子どものころから農・工・商の環境に身を置いていたことになります。
14歳のとき、いつもは父とともに出かける藍葉の仕入れに、都合により祖父と一緒にでかけることになりました。しかし、生意気ざかりだった栄一少年は、祖父をおいて1人で買いつけに出かけてしまいます。当然、子どもの栄一は仕入先の農家から相手にはされませんでした。しかし仕入れようとしている藍葉の品質について、「この葉は肥料が足りないようだ。この葉は乾燥が不十分」などといちいち鋭く指摘したので、相手は驚いたり面白かったりして、最終的には上等の葉を安く仕入れてきたというエピソードがあります。
また、当時、幕府の御用金調達と称して、領主が裕福な領民からお金を供出させることがたびたびありました。17歳になったあるとき、栄一は、領主から500両の御用金を差しだすように申しつかっていた件で、父に代わって代官所に出頭しています。そこで、身分を盾にした役人の傲慢な態度に、渋沢少年は正論で真っ向から対抗します。怒り心頭になった彼はこのとき、すべては幕府が悪いからだという結論に達し、倒幕に目覚めたのです。
5歳のころから父の影響で読書を授けられ、7歳のときには従兄の尾高淳忠のもとに通って四書五経や『日本外史』を学びました。また、兄弟から神道無念流の剣術を学んでいた栄一は、前にも述べたように、過酷な少年時代を送りました。
しかし、そうした過酷な思いを胸に秘め、栄一はのちに利益を追求する日本の経済を支える財界人となり、後半生は社会還元に努め、社会実業家として尽くしていくようになります。
彼が社会実業家として尽力した背景には、栄一の母の教えがあったのではないかと思います。
たとえば、生家の近くに太いケヤキの木があり、その大木のなかの洞(ほら)が泉になっていて、そこによくライ病(現ハンセン病)の人たちが入っていました。母は栄一少年に、この病気はにわかに感染するものではないから一緒に入りなさいといって、栄一少年の羞恥心を取りさり、慈愛の心を教えたといいます。
栄一はその母の教えを守り、実業界を退いたあと、亡くなるまでの60年という長きにわたり、身寄りのない子どもや老人、また路上生活者や障害をもつ人などを救済する、日本で最初の公立教貧施設である「東京養育院」で院長をつとめました。
だれもが、金儲けをして功なり名を挙げたら、ある種の慈善的な行為をしようとは考えるものです。しかし、栄一ほど本腰を入れ、社会実業家として慈善事業に取りくんだ人はいないでしょう。
それはやはり、子どものころからの四書五経、とくに『論語』の素養から、人への思いやりが身についていたからでしょう。そして、母親から教えられた本物の慈悲の心が、栄一の心中深く生きていたからではないかと思います。

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
渋沢栄一 (1840-1931) 91歳で死亡。
明治から昭和にわたるあいだ、一代にして財閥を作りあげた人物は数々あるが、ただ巨富を築くのみでなく、日本の資本主義の指導者として、またその地位にふさわしく公益福祉の面で心をつくした志の高さにおいて、渋沢は第一等の人物であった。
大正5年、76歳のとき渋沢は一切の経済上の要職から去って、以後社会事業に余命を捧げた。
栄一は90を過ぎてから、さすがに家にひきこもりがちになった。家人が、落語家か義太夫でも呼んだら、といっても、芸人などを呼ぶことは分に過ぎたぜいたくだと考える栄一は、子の秀雄に本を読んでもらった。中里介山の『大菩薩峠』を読んだときには、途中で、自分も知っている近藤勇土方歳三の想い出話をした。
そういう生活の中でも、昭和5年12月、風邪で臥床中の栄一のもとへ、社会実業家たち20人が面会を求め、窮民救護のための尽力を要請すると、栄一は主治医の反対もきかず高熱をおして大蔵大臣のところへ出かけて、救護法の予算化を陳情した。
その翌年から身体不調となり、秋ついに直腸ガンの診断を受けて手術することになった。ただし病名は彼には伏せられた。
入院前夜、大勢の子供たちが集まった自邸で、秀雄が柳家小さんの落語速記「寝床」「船徳」「花色木綿」を読みあげるのを聞いて、快く笑った。
手術の前に、彼は執刀の塩田広重博士に、
「私は関羽みたいな豪傑ではありませんからお手柔らかに願いますよ」
と頼んで笑わせた。
手術を受けたのち、彼は「術後肺炎」を起こした。ひどい食欲不振におちいり、皆が熱心に食事をすすめると彼は、「私も食べたいのだが、がまんにものどを通りません。意地を張っているわけじゃないから、あしからず思って下さいよ」
と、いった。しかし彼は、自分の病名は知らなかったが、もう全快したいという意欲はなかったようで、病気のはじめから終りまで、医者にも家族にも、病名はおろか病状さえまったく尋ねなかった。
彼がこの世を去ったのは昭和6年11月11日午前1時50分であった。「父の死は、息子の私にとって、晴れた地平線に、まんまるい大きな太陽が沈んだように見えた」と息子の秀雄は記す。渋沢秀雄は、「父を尊敬する稀有な一例である。
−−とはいえ、きれいごとばかりで大富豪になれるわけがない。女道楽にかけても渋沢は大変な色豪で、そのためばかりではないが、岩波重雄に勧められて『渋沢栄一伝』を書いた露伴は、以後渋沢の名が出るたびに不機嫌な顔をした。

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論語の精神をもって生涯を貫いた渋沢栄一 (一部抜粋しています)
深谷が生んだ日本資本主義の父、といわれる明治の大実業家・渋沢栄一は、孔子の教え「論語」を生涯の行動規範とし、清廉潔白な経済人としての姿勢を貫き、多くの人々の尊敬を集めたのです。
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慈善を慈善として行うのは真の慈善に非ず、余はこれを楽しみとする
渋沢栄一は、社会福祉事業にも熱心で、養育院の設立をきっかけに数多くの病院や学校づくりに尽力しました。ヒューマニズムの精神で国際親善にも寄与。日本国際児童親善会や、世界の知人達と幅広く交流しました。
恵まれない人々に手をさしのべて
渋沢栄一は、実業界の中で社会公共事業に最も熱心だった一人で、彼が関わった事業は600余に及びました。こうしたヒュ−マニズムの精神は、栄一の生涯を貫いた論語の教えのほか、母親のえいが並はずれて優しい親切な人だったことも影響しています。
栄一は明治7年、35歳のとき、東京府からの要請で「東京市養育院」を設立。以来、91歳の天寿をまっとうするまで、56年間も熱心に養育院の院長を勤めました。養育院は、身よりのない子どもや老人を養う施設です。また、孤児院の「埼玉育児院」、精神薄弱児施設「滝乃川学園」の設立・運営や、晩年になってからも生活困窮者を救うための「救護法」の制定などにも力を尽くしました。
栄一は、実業教育も重視し、東京商法講習所の経営に尽力。これは東京高等商業学校(後の一橋大学)に発展。その他、日本女子大学校(後の日本女子大学)の創立委員にもなっています。
http://www.education.fukaya.saitama.jp/shibusawa/shibusawa.htm
渋沢栄一 日本を創った実業人【書評】 | 投資十八番
http://stockkabusiki.blog90.fc2.com/blog-entry-856.html
渋沢栄一 Google 検索
http://images.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&rlz=1T4GZAZ_jaJP276JP276&q=%E6%B8%8B%E6%B2%A2%E6%A0%84%E4%B8%80++%E7%94%BB%E5%83%8F&um=1&ie=UTF-8&ei=crueS_q7OYyOkQWbsvmQDw&sa=X&oi=image_result_group&ct=title&resnum=1&ved=0CBEQsAQwAA
余話
渋沢栄一は、明治・大正・昭和にまたがって活躍した実業家であり、日本資本主義の最大の牽引力になった人です。
渋沢栄一の言葉
「事業には信用が第一である。世間の信用を得るには、世間を信用することだ。個人も同じである。自分が相手を疑いながら、自分を信用せよとは虫のいい話だ」
「人には景気を売買したがる性分がある」