じじぃの「人の死にざま_44_徳川・家」

徳川家康 - あのひと検索 SPYSEE
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決戦3 徳川家康 大志 動画 Youtube
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徳川家康 ルンルン 動画 Youtube
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歴史秘話ヒストリア 「つらい時こそ一歩前へ! 〜徳川家康の決断」 2011年4月20日 NHK
【キャスタ】渡邊あゆみ
ボクの人生どこへ?天下人・徳川家康も若き日は苦労の連続。織田信長武田信玄豊臣秀吉には悩まされっぱなし。先の見えない人生を切り開いた家康の若き日々を紹介する。
「ボクの人生は、どこに行く?」。天下人・徳川家康も、若き日は苦労の連続、屈辱の日々を送り続けた。10代は織田・今川という強国の板挟みに悩む日々。織田信長と同盟を結んだ後も、信長の身勝手なふるまいのツケが、すべて家康のもとへ。さらに、5倍以上の大軍を率いる秀吉との戦いを迎える家康、いったいどうなる? 先の見えない人生を何とか前へ進もうと、一歩を積み重ねていった家康の若き日々を紹介する。
http://www.nhk.or.jp/historia/backnumber/84.html
『世界に誇れる日本人』 【著】渡部昇一 PHP文庫 2007年出版 (一部抜粋しています)
世界的スケールの武人・徳川家康
大阪の陣(1614〜15)の頃、日本にあった鉄砲の質と量は、世界一だった。それを使えなくなるように仕向け、戦国時代から平和な時代への切り替えに成功させたのが徳川家康である。政治史的に見て、家康の成し遂げたことはおそらく世界ではほとんど類がない。
また、家康が作った徳川幕府はきわめて安定した体制だった。もし黒船が来なかったら、1000年以上続いたであろうと思われるほどである。
さらにいえば、発展の乏しい貧しい社会で同じ体制が何百年続いても不思議はないが、徳川体制は日本の国民が向上し続けたといっていいほどの豊かさをもたらした。スーザン・ハンレイというアメリカの女性学者は江戸時代の生活をいろいろと調べて書いた学位論文で、もし江戸時代の頃に庶民として生まれるならば日本、貴族として生まれるならばイギリスが一番良い、といっている。庶民の生活レベルは当時の世界で最も高かったというのである。
実際、日本では地方の隅々まで文化が行き渡り、今日、どこへ行っても名産品がある。これは徳川時代の賜物である。また、問屋制度みたいなものも為替取引も自然発生したし、商品取引所がイギリスよりも先にできている。
それから、学問も教育も、そしてわれわれがいう「日本的なる文化」のほとんどが江戸時代にできた。明治時代になって日本に来た西洋人は、その日本の文化に酔い、世界的にジャパネスクが流行った。わかりやすい例でいえば、ゴッホは江戸時代の浮世絵を写したりした。西洋の絵画史はそこから変わるわけだが、それだけのものを江戸時代の日本は作っていた。
これらすべて、戦国時代とは異なる全く新しい原理に基づく体制へと切り替えた徳川家康なくして生まれなかったのである。世界的なスケールでの偉人といっていい。

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
徳川家康 (1542-1616) 74歳で死亡
家康は若いころ、秋には珍しい桃を贈られたが、時期はずれの果物は危険だ、といって捨てた。また、老いてから少し病んで快方に向かった時、その食がやや進んだのを見て侍医がめでたがると、「命は食にあるとは、大喰いということではない。人は飲み食いが大事だ、という意味だ」と諭(さと)した。また、鷹狩りはレジャーのためではなく健康のためだ。運動すれば筋骨を鍛え、疲れれば快眠するから従って閨房のことにも遠ざかることのなる。といった。しかし、彼が側妾(そばめ)の1人お勝に最後の子供を生ませたのは、数え年66歳のときであった。
晩年、好んで思春期の美少女と同衾(どうきん)したというのは、一見「いやな爺い」に思われるが、やはり彼の弱りを示すものであろう。とはいえ、老人最高のぜいたくといわざるを得ない。
この衛生学の大家の命とりになったのは、しかしその遠因は、皮肉にも放鷹(ほうよう)であり、直接原因は食当りであった。
元和2年1月21日、放鷹から帰った彼は、榊原大内記から献上された鯛を、茶屋四郎次郎が油であげて蒜(ひる)をかけた料理を、昼間の運動による空腹のせいで大食し、その真夜中午前2時ごろから、腹痛、吐瀉(としゃ)など烈しい食中毒症状を起こした。
その症状はいったん去ったかに見えたが、以後不調は一進一退し、4月17日午前10時ごろついに他界した。
しかし『寛政重修諸家譜』に「御腹中に塊(かたまり)あり」とあり、もともと胃ガンにかかっていたのではないか、という説もある。
大阪城を片づけてから11ヵ月目であった。逆にいえばその発病が1年早ければ大阪城の命脈はなおつづいていたに相違ない。

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徳川家康の言葉
「人の一生は重荷を負うて遠き道を往くがごとし、急ぐべからず」