じじぃの「人の死にざま_37_高柳・健次郎」

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世界で最初のテレビ 高柳健次郎博士 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=T0-quZogLDg
日本初のテレビジョンに映し出された文字 「イ」

『無から始めた男たち 20世紀日本の経済人セレクション 』 日本経済新聞社 2003年発行
高柳健次郎 (1899-1990) 91歳で死亡 (一部抜粋しています)
電子式を成功させた"テレビの父"
30年先を読む冷静な技術史観と、並外れた実行力を持つ人物だった。戦前、欧米に先がけて電子式テレビの開発に成功し、"テレビの父"と言われた高柳健次郎である。学、官、軍、民の研究現場を歩き、組織を活用した日本的な技術開発の仕組みを確立した先駆者でもあった。特許や規格への戦略的な取り組みも、現在の世界市場を見越した鋭い先見性のあかしといえる。
【詳細】
「サルか人かを見極めることです」。神奈川県久里浜にある日本ビクターの研究所で、高柳健次郎はこう繰り返したという。現時点では気が利いてすっきりしている技術が、需要の高度化にこたえてどんどん成長していくとは限らない。今ははしにも棒にもかからない技術や発想でも、先にいって次代の屋台骨を支えるほど、賢くたくましく育つかもしれない。それを判断しろという意味だ。
その見極めこそが、技術者高柳の真骨頂である。
1920年代、欧米列強は多くの人材と巨費を投じて、テレビジョンの開発で覇を競った。主流は、穴の開いた円盤を回転させて画像を走査するなどの機械式の映像伝送。だが、極東の島国、それも中央の学会とはやや距離を置いた浜松で、1人の青年が「電子式こそテレビの本道」と見極めて、その道を猛進したのだ。
始まりは高柳25歳のときだった。「テレビの研究をする」。新設の浜松高等工業に助教授として赴任した際、校長の関口壮吉に宣言、全面的な支援を受ける。そしてわずか2年半で、受像側だけだが、電子式の映像伝送に成功した。
26年(大正15年)12月25日、実験室のブラウン管に「イ」の字が鮮やかに映し出された。現在の電子式テレビの土台ができた瞬間だ。その日、大正天皇崩御の報がもたらされる。テレビは昭和とともに産声をあげたといえる。
当時、英国では機械式のテレビシステムで試験放送が始まり、日本でも早稲田大学で世界最大の画面をつくるなど、機械式の進歩もめざましかった。このため、高柳の電子式に対する評価も割れ、機械式への転向を勧める声も出てきた。
ここで高柳が口にしたのがサルとヒトの見極めだった。サルの赤ちゃんは生まれて間もなく動き回り、瞬く間に親と同じに成長する。一方、人間の赤ちゃんは成長は遅くて育てるのに手間はかかるが、成長すればその能力は極めて高い。
機械式は、いわばサルの赤ちゃんだ。幼稚な画像を送るだけなら鮮明だが、動画像を送る本格的なテレビには、原理的にとても対応できない。一方、電子式は生まれたばかりの赤ちゃんで、今はまだはいはいの段階だが、将来は確実にこれが本命になる。
様々な外野の声にも、理論的でち密な考察を基にした高柳の見極めは揺るがなかった。30年(昭和5年)高柳のテレビ装置は天皇の栄に浴し、それにともなって、教授に昇格する。31歳の若さであった。
だが、受像側が電子式でも、撮像装置が機械式のままでは、いい画像は得られない。30年に高柳は人間の目の性質に着目し、積分方式の撮像管を考案する。ただ、その試作までには至らなかった。
そうした折の33年だった。米国のRCA社のツブォルキン博士が、積分方式に似たアイコノスコープを開発して、全電子式テレビを試作、高品質の画像を実現したというニュースがもたらされたのである。
翌年、高柳はツブォルキンに会うため渡米。RCAを訪れた高柳は、自分がかなりの有名人であることに驚いた。試作機は完成しなかったものの、積分方式などの特許を取得していたことで、アイコノスコープの特許は日本で拒絶されていた。このため。RCAには「日本にはタカヤナギというかなりできる人物がいる」との認識があったのだ。
だが、これは同時に彼我の差を思い知らされた訪問でもあったという。ツブォルキンと話すことで、同じころ同じ発明をしながら、装置作りで後れをとった理由が理解できたからだ。向こうは1週間に1個の割で猛烈に詩作をしている。研究チームに必要な装置がそろっている。「もちはもち屋」などといって、他人任せにしていると、結局は前に進まない。
高柳は狭少な専門家意識を捨て、自分たちで製品を完成するプロジェクト方式の重要性に思い至った。帰国後、即座に研究チームにそれを徹底。独自のアイコノスコープ型撮像管を開発し、35年には走査線が240本の全電子式テレビシステムを完成させた。
こうして戦前、高柳の研究は順調に進んだが、一時停滞を余儀なくされた。
40年(昭和15年)開催予定の東京五輪をテレビ放送する計画が決まり、高柳は放送システムを確立するため、NHK技術研究所のテレビ担当部長の職に就いた。37年のことである。そして39年には日本初の電波によるテレビ放送に成功。本番に備えたが、国際情勢は急を告げ、東京五輪は中止となった。
ここから戦後しばらくまで、日本のテレビ研究は実質的に中断することになる。高柳は43年から海軍技師として電波兵器や暗視装置の研究に従事した。仮に五輪が開かれ、研究が継続されていたら・・・・。 歴史にイフはないとはいえ、そう思わずにはいられない。
そして戦後、高柳は海軍時代に集めた優秀な研究者、技術者を引き連れ、NHKに戻って研究を続けたいと考えた。だがGHQ(連合国軍総司令部)から、待ったがかかった。1人ならば教職にも戻れるが、20人を超す頭脳集団をどうするか。そのとき、かってRCAの子会社だった日本ビクターが引き受けてくれることになった。
ここから高柳の第2の挑戦が始まったのである。戦争中の空白は大きく、技術は米国の先行を許していた。それはやむを得ないとしても、「将来のカラー放送などに備えるなら、規格まですべて米国に追随する必要はない」。30年先を見る高柳のこうした主張は、「復興第一」「追いつき、追い越せ」の大合唱に、かき消されてしまった。
しかし、映像文化の先行きを見通す目は、その後のVTR,DVDなどの開発戦略に見事に生かされている。家庭用機器としてのVTRに2ヘッドの採用を提言し、様々な曲折はあったにせよ、日本製のVHSが世界規格になることについて、大きく貢献したことは間違いない事実だ。
73年(昭和48年)ビクターの業績低迷で、同社の会長、社長、そして副社長だった高柳も第一線から退いた。親会社の松下電器産業の相談役松下幸之助から社長就任を要請されたものの、高齢と人心一新を理由に総退陣を唱えたという。その潔さも、たしかな見極めゆえなのだろうか。

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高柳健次郎の言葉
「先見性を持ち、ひたむきに努力すること。ひとりの天才によって科学技術が進歩する時代は終わり、集団討議によるステップ・バイ・ステップの研究でこそ、大きな成果が期待できる」

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