じじぃの「人の死にざま_1648_ウラジミール・ツヴォルキン(テレビ・発明家)」

Vladimir K. Zworykin

テレビ放送の歴史
テレビジョン放送の歴史はスコットランドのAlexander Bain(1810 - 1877)が1843年に発明した写真電送に始まると言うことが出来る。Bainはイギリスの特許を得たものの公開の実験には到らなかった。
その後、1920年代に入り、新聞社での写真電送が実用化されるようになった。
画像の精度を上げるためには走査線の数を増やさなければならないが、ニポー円板ではその数に限界があり、せいぜい100本が限度であった。円板の外周上に開ける穴の数を多くするためには直径を小さくしなければならず、直径を小さくすれば透過する光の量が少なくなると言う具合で、また工作上の制限も加わる。
そのため早くから電子式撮像管の研究開発が進められていたがなかなか実現されなかった。
ロシア生まれのツヴォルキン(Vladimir Koz'mich Zworykin)(1889 - 1982)がアイコノスコープ(撮像管)を発明したのは1933年(昭和8年)である。ツヴォルキンはロシア革命のためアメリカに亡命し、RCA社に入社してテレビの研究開発を行った人である。
これによってテレビ放送はその実現に向けて大きく一歩を踏み出すことが出来るようになった。
http://www.dia.janis.or.jp/~nasimoto/tv/tv-1.htm
『テレビ屋独白』 関口宏/著 文藝春秋 2012年発行
 (一部抜粋しています)
私がテレビに魅せられたのは、「前武、巨泉、青島だぁー」の頃で、それまでは、いわゆるNHK的段取り通りのテレビ番組主流の時代、それはそれで、大いに価値があるテレビではあったのだが、そこにこの3氏を先頭に、もっと自由な、いわば民放的な空気がブラウン管に広がるにつれ、そんな世界を私も見てみたいと思うようになった。
でも私自身にはこれといった特技もなく、ただ、父が映画俳優だったというコネクションが頼りのつまらぬ存在だったのだが、良き友にめぐり合い、助けられて、気が付いたら50年近くもこの世界にお世話になっていた。
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20世紀になって、電波を映像化するという、人類の夢を実現した、世界ではじめての人は、アメリカのツヴォルキン博士ということになっている。がどっこい、日本人にも同時期、同じ研究をしていた人物がいた。
だいたい、素晴らしいアイデアというのは、それを思いついた時点で、世界には同じことを考えている人が7人はいるという。それは進化し続ける人類の歩みのポイント、ポイントにおいて、その時々、どこからともなく降りてくる宇宙の智慧みたいなもので、それをキャッチする人が、わずかながら世界に点在していると、あるものの本に書かれていた。
その一人がツヴォルキンであり、日本人は高柳健次郎という人物であった。
高柳は大正期からテレビの研究に没頭し、大正末期に、ほぼ映像化に成功、「イ」という文字を、見事ブラウン管に映し出して見せ、それまで変人扱いしていた周囲を驚かせた話は有名である。高柳はその後も改良を重ね、NHKと共に昭和15年、歴史上初のアジア開催が決定していた東京オリンピックを、テレビ中継する計画をたてていた。しかし戦局の悪化から東京オリンピックは中止、高柳の研究も頓挫してしまい、その間にアメリカのツヴォルキンに、先を越されてしまったのである。
余談になるが、この東京オリンピック、実は私の父も、水球の選手で出場が決まっていたのだが、残念ながら、水着を軍服に替えざるをえなかった。その悔しさも多少あったか、晩年、「馬鹿な戦をしたもんだ」が父の口癖になっていた。
またこのツヴォルキンのテレビは、太平洋戦争中にすでに営業放送化され、アメリカ人は、自宅の受像機で、日本とアメリカの戦況を見ていたというから驚いてしまう。
「欲しがりません、勝つまでは」をスローガンに、竹ややりなんぞで本土決戦を覚悟していた日本人とは大違い、それこそ「馬鹿な戦」をしてしまったのだろう。
さてそのツヴォルキンや高柳によってこの世に誕生したテレビが、今大きな曲がり角にさしかかっている。本家のアメリカでも、かつて世界を席巻した3大ネットワークが、買収やら合併やらで、なんとか持ちこたえてはいるが、内情は相当厳しいようで、それこそ高い数字の取れる番組はほとんど姿を消し、テレビにとって最も大事なジャーナリストが、次々職を失っていると聞く。アメリカといえば数百ものチャネルが存在するテレビ大国。それがテレビ界を広く薄く浅くして、全体としての落ち込みに拍車をかけていることが大きな要因とも言えるのだろうが、どうもテレビ界低迷の原因はそれだけではなさそうだ。