じじぃの「江戸という時代」考

東区・浅草 三社祭「宮出し」が復活 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=oN1z7yC9Lzs&feature=relmfu
Edo-Tokyo Museum 江戸東京博物館(外観・内観) (Tokyo Japan) 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=OjVYtcg_JrU
江戸 Google 検索
http://www.google.co.jp/images?hl=ja&rlz=1T4GZAZ_jaJP276JP276&q=%E6%B1%9F%E6%88%B8&gs_l=hp...0l5j41.0.0.1.2004248...........0.3FaR_VOqntM&sa=X&oi=image_result_group
江戸 ウィキペディアWikipedia)より
江戸は、東京の旧称である。特に、江戸城を中心とする現在で言う千代田区中央区周辺を指す。
【江戸の人口と識字率
609年ごろに15万人と伝えられた江戸の人口は、18世紀初頭には100万人を超え、世界一ないしはそれに匹敵する規模であったと推定されている。成人男性の識字率も幕末には70%を超え、同時期のロンドン(20%)、パリ(10%未満)を遥かに凌ぎ、ロシア人革命家メーチニコフや、トロイア遺跡を発見したドイツ人のシュリーマンらが、驚きを以って書いている。また、武家だけではなく農民も和歌を嗜んだと言われており、その背景には寺子屋の普及があったと考えられている。その様に世界的に見れば極めて高い水準であると言うことができる。

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れきたん歴史人物伝/小泉八雲ラフカディオ・ハーン (一部抜粋しています)
【日本に憧れて】
アメリカに渡ったハーンは、主に新聞記者を生業として暮らしてゆきます。はじめは上手くいきませんでしたが、各国文学の翻訳などを通して徐々に名前が売れ始め、渡米後十年も経つ頃には評判の記者となっていました。さて、当時のハーンはアメリカ南部のニューオーリンズという街に住んでいました。これ以前より、ハーンは遠い外国や東洋の文化などに惹かれる気持ちを持っていたようですが、そういう傾向をさらに強める出来事が起こります。それはニューオーリンズで開催された万国博覧会でした。この万博には日本からの美術品の出品などもあり、それらはハーンの心をとらえました。ここでハーンは日本という国を意識し、憧れを持つようになったといいます。
その数年後のことでした。ハーンは、ハーパー社という会社と日本についての記事を執筆する契約を結びました。それは特派員として日本へ渡る機会を得たということを意味します。こうしてハーンは日本へ行くことになったのです。
【日本に暮らす】
ハーンが日本の地に立ったのは40歳の時でした。1890年ですから、年号で言うと明治23年ということになります。日本全体が近代化を目指していよいよ猛進しようとしていた時期にあたりますが、維新からたかだか20年、まだまだ江戸期の雰囲気も残っていたはずです。
そんな日本の空気は、ハーンにとって大変満足できるものだったようです。ハーンは日本研究に専念することを決意し、ハーパー社との契約を破棄しました(契約条件の悪さも原因だったようです)。この時点でハーンは無職となったのですが、つてを頼り、英語教師としての職を得ます。赴任先は島根県の松江でした。
島根でハーンは日本の暮らしを愛し、溶け込んでいったようです。日本の女性とも結婚しました。しかし、暖かい土地での暮らしが長かったせいでしょうか、島根の冬の寒さはハーンにとって堪え難く、1年ほど後に熊本へと移住し、さらに神戸へ移住しました。日本研究も進めており、いくつかの著書も刊行しています。
ところで、この頃にハーンは日本へと帰化し、妻の姓である小泉の名をもらい「小泉八雲」と名乗りました。
http://rekitan.net/person/080626.html
【正論】早稲田大学教授 榊原英資 「この国のかたち」変えるには 産経 2008/10/15 (一部抜粋しています)
≪江戸幕藩体制にヒント≫
 日本の地方分権平安時代からの荘園、そして江戸時代に完成されていった藩という形をとっていった。江戸時代、大は加賀100万石から小は1万石そこそこといった小藩まで260以上の藩が存在していた。
 周知のように、財政権、行政権は藩にあり、幕府では老中たちが藩を監督し、外交・軍事権は強固だったが、財政的にはほぼ400万石の大大名にすぎなかった。この体制で260年もの間、対外戦争も内乱もなく平和な時代を維持できたのだから、大変見事なシステムであったといわなくてはならないだろう。
 現在、地方分権のモデルにしなくてはならないのは明らかに江戸時代的「藩」であろう。筆者は明治4年廃藩置県になぞらえて、廃県置藩と呼んでいるが、具体的には300前後の基礎的自治体と国の二層構造とするのが望ましいのだろう。平安時代から江戸時代の藩に至る歴史があるということは、地域の文化や伝統もほぼ藩を基準にして残っているということでもある。加賀友禅、丹後縮緬(ちりめん)などなどである。
 国の出先機関都道府県などを廃止しなくてはならないのだから時間はかかるだろうが、5〜10年の行程表をつくって実現すべき課題であろう。当面の世界的金融不安や景気後退にどう対応するかも大切だが、今回の選挙ではこうした息の長い政策についても是非議論すべきであろう。この国のかたちを大きく変えていかないと、日本の未来はないし、今から取り掛からないと手遅れになってしまう。
http://sakura4987.exblog.jp/8802809/
地球誕生の謎に迫る 松井孝典 (一部抜粋しています)
──人間圏ができたことで、地球上にいろいろな問題が起きたわけですね?
松井 そうです。人間圏は、地球システム内の物質エネルギーを利用することで維持されています。人間圏が誕生して数千年の間は、地球システムの駆動力の範囲内で生活するフロー依存型の時代が続きました。
しかし現代の人間圏は、原子力、石油、石炭、天然ガスといった駆動力を人間圏の内部に持つストック型であり、地球上で自在に物を動かすことができます。つまり、地球全体の物質やエネルギーの流れを変えてしまい、さらにシステムの構成要素までも変えてしまっているのです。
これでは地球上のものやエネルギーの流れが、われわれの欲望によって決まってしまいます。私達はもっと地球固有のフローの範囲内で生きていくことを考えなければいけないのです。
──フローの範囲内での生活とは、具体的にはどういった生活になるのですか?
松井 分りやすい例を挙げれば、江戸時代の生活です。江戸時代の人間圏では、降りそそぐ雨や太陽の光など、自然エネルギーを利用して生活していました。これにより、約3,000万−3,500万人が生きられる人間圏を維持していたわけです。こうした時代には、人間圏の大きさが変らないため、地球システムと人間圏のバランスがよく、すべての流れは地球が決めていたのです。
http://www.athome-academy.jp/archive/space_earth/0000000246_all.html
どうでもいい、じじぃの日記。
この頃、江戸時代を取り上げている人が多いような気がする。
江戸時代の人口は約100万人で当時、世界最大の都市だったようだ。寺小屋があり、ほとんどの人が文字を読めていたという。
明治に来日したラフカディオ・ハーンは島根で英語教師をしたが、古き日本を本当に愛した人である。
明治にお雇い外国人として東大で土木技術の教師をしていたヘンリー・ダイアーも古き日本をこよなく愛した一人だった。ダイアーは日本が軍国化していくことに日本の将来を按じながら、故郷のイギリスで亡くなった。
ハーンにしろ、ダイアーにしろ、古き日本(江戸)を愛した人たちだった。
早稲田大学教授の榊原英資さんは今の東京へ権力集中しているシステムを江戸時代の藩のシステムに替えろと提案している。
又、千葉工業大学惑星探査研究センター所長(元東京大学大学院教授)の松井孝典さんは今の「ストック依存型」から「フロー依存型」の社会に替えろと提案している。「フロー依存型」とは江戸時代のようなレンタルな社会だ。
先日、テレビでMr.マリックが出ていた「大江戸超魔術」を観た。
その中に、豆腐を何も触らずに、2丁にするというマジックがあった。種明かしを見て、すばらしいと思った。
江戸時代というのは浮世絵が庶民の生活の一部になっていたというし、何かすばらしい時代のように思えてきた。
幕末から明治へというと、日本の近代化というのばかりに目が行ってしまいがちだが、江戸時代は人間にとって普遍的なシステム、文化とか社会を合わせ持っていたのかもしれない。