じじぃの「人の死にざま_35_高杉・晋作」

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高杉晋作 動画 YouTube
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『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
高杉晋作 (1839-1867) 28歳で死亡。 (一部抜粋しています)
「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し」
という松下村塾同門の伊藤博文の讃辞は、ありきたりの顕彰碑の銘文ではない。
慶応2年6月、「奇兵隊」をもって第2次征長の幕軍を撃破した快男児高杉晋作は、なお馬関に参謀として小倉城攻撃を指揮していたが、このころ風邪をこじらせて、以前から患っていた肺患が悪化した。8月下旬に至り大量の喀血を見、ようやく屯所を離れ、下関の酒造家林算九郎方の離れで病を養った。看るのは妾おうのであった。
翌年2月、晋作の妻雅子が伜の東一を連れて荻から出てきた。
雅子はのちに語る。
「私は高杉といっしょにいましたのは、ほんのわずかの間で、その間東行はいつも外にばかり出ていました上に、なくなりましたのがまだ29というほんの書生の時でございましたから、私はなんにも東行についてお話する記憶がございません。
そのうち馬関で東行が病気にかかりまして、だいぶひどいという知らせが参りましたので、私は両親といっしょに馬関に参りました。東行は馬関の新地の林屋という家の奥の座敷に寝ていました。私どもが参りました時は、もうだいぶ悪くなった時で、沢山吐血をいたしました。御飯もおもゆくらいしかいただけませんので、もうすっかり弱ってしまっていました。井上(聞多)さんや福田(侠平ー奇兵隊軍監)さんらがよくお訪ね下さって、お話をして下さいました。
東行は自分のからだは悪くなるし、それにひきかえ世間はいよいよ騒々しくなるので日に日に興奮するばかりで、いつもイライラしていました。井上さんや福田さんに向かって、いつも『ここまでやったのだからこれからが大事じぁ。しっかりやってくれろ』といい続けて亡くなりました。
いいえ家族のものには別に遺言というものはありませんでした」
彼は妻の雅子より、妾のおうののほうを愛していたようだ。
しかし、妻と愛人について、彼はかって、
「是より両花艶美を争う
 主人は手を拱(こまぬ)いて意如何」
という詩を作っている。いい気なものだ。
病状は進み、慶応3年4月14日最後の日がきた。友人田中光顕の談話によると、その日も晋作はなじみの料理屋にゆくといってきかず、しかたなく駕籠(かご)を呼んだ。晋作はそれに乗ったが気力つきて、また病床へ戻ったという。
その病床で、野村望東尼をはじめ多くの知友に見守られつつ、晋作は筆と紙を所望し、
「おもしろきこともなき世をおもしろく」
と、書いた。
あとをつづける気力もないようなので、望東尼が、「すみなすものは心なりけり」と、まとめると。彼は「面白いのう」と笑って眼を閉じた。
維新回天の日のちょうど1年前であった。同年11月にやはり伝馬のごとき坂本竜馬もこの世から翔(と)び去る。

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[雑学知識][高杉晋作(東行)東行庵] FROG ふろっぐ (一部抜粋しています)
高杉晋作(東行)
 1839年8月20日長州藩高杉小忠太の長男として萩市菊屋横町に生まれ、藩校明倫館や江戸の昌平坂学問所で学ぶ一方、松下村塾吉田松陰にも師事し、頭角を現しました。
 1862年長州藩を代表して幕府の貿易視察団に加わり、中国上海に渡った晋作は、ヨーロッパ諸国の半植民地と化した街をみて、大変な衝撃を受けます。幕府に外交を任せていては、日本も中国の二の舞いとなると判断した晋作は、下関防備のため翌年6月、奇兵隊を結成。奇兵隊は武士以外の庶民の入隊も許した、画期的な軍隊でした。
 1864年8月、長州藩関門海峡に攻め寄せた英米仏蘭の連合艦隊17隻と砲火を交え、敗れます。晋作は藩を代表して講和談判にのぞみ、賠償金の要求を見事にはねつけました。しかし、長州藩の藩論が、幕府に恭順謝罪に傾いた時、晋作は僅か80名を率いて下関で決起し、やがて内戦のすえ勝利し、藩の主導権を握ります。
 1866年長州に攻め寄せた幕府軍15万に、晋作たちは僅か3000で立ち向かいます。そして奇襲を重ね、ついに勝利しますが、結核が悪化し、病死。
 1867年4月14日下関市新地で病死するまで僅か27年7ヵ月という短い一生を、これほど激しく燃えつくした人はいなかった。
 近代日本のあけぼの明治維新の最大の推進力は長州藩であったが、その長州藩をひっぱって行ったのは実に彼であった。彼の創設した奇兵隊明治維新の精神があるともいえる。
 つねに大局をつかみ、敢然と一歩先を歩み続けた高杉東行こそ、今日における最も期待される人物像である。
http://www.jp-ia.com/_qa/takasugi_s.htm
司馬遼太郎「世に棲む日日」を読む 生好 有怒苦 (一部抜粋しています)
幕末の長州藩の物語である。
主役は吉田松陰高杉晋作。端役は明治日本を作った伊藤博文井上馨山県有朋など。敵役は徳川幕府、英仏蘭、藩内家老群など多数。毛利敬親と世子の元徳は「そうせい候」と言われ名君とも暗愚ともとれる藩主。
松陰は29歳、晋作は松陰に遅れること8年後に28歳とともに短い生涯を終えている。
http://blogs.dion.ne.jp/80finerain02/archives/8580164.html
高杉晋作の言葉
「おもしろきこともなき世をおもしろく」は名言です。

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