じじぃの「人の死にざま_31_土光・敏夫」

土光敏夫 - あのひと検索 SPYSEE
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土光敏夫 画像
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土光敏夫 ウィキペディアWikipedia) より
土光 敏夫(1896年(明治29年)-1988年(昭和63年))は、昭和時代の男性エンジニア、実業家、財界人。第4代経済団体連合会経団連)会長。位階勲等は従二位勲一等(勲一等旭日桐花大綬章・勲一等旭日大綬章・勲一等瑞宝章)。称号は岡山県名誉県民。 91歳で死亡。
【質素な生活】
行政改革を推進する宣伝として、昭和57年(1982年)にNHKで「NHK特集 85歳の執念 行革の顔 土光敏夫」というテレビ番組が放送された。その内容は、土光の行政改革に執念を燃やす姿と、生活の一部を見せたものであった。土光の普段の生活として、次のようなものが映し出された。
・戦後一回も床屋へ行ったことがなく、自宅で息子にやってもらう。
・穴とつぎはぎだらけの帽子。
・戦前から50年以上使用しているブラシ。
・妻に「汚いから捨てたらどう?」と言われた使い古しの歯磨き用コップ。
・農作業用のズボンのベルト代わりに使えなくなったネクタイ。
とりわけインパクトが大きかったのは、妻と二人きりでとる夕食の風景であった。メニューはメザシに菜っ葉・味噌汁と軟らかく炊いた玄米。これが「メザシの土光さん」のイメージを定着させた。2003年3月に「アーカイブス特選」としてこの番組が再放送された際ゲスト出演した瀬島龍三によれば、ある行革に関する集会の終了後、会場の出口で浅草六区の婦人会連が袋いっぱいのメザシを持って待ち構え、出てきた土光と瀬島に手渡したという。あまりの量で大変な重さだったと瀬島は述懐した。
また、普段の生活ぶりは感服させられるほど非常に質素であり、決して蓄財家でもなく、微々たる生活費(月10万円を超えることがなかったという)以外の残りの多額の収入は、すべて横浜市鶴見区にある私立校の橘学苑に寄付されていた。
普段の生活は一般庶民よりも質素であったことはつとに知られている。家の中のことはもとより、経団連会長になってからも、通勤にはバス・電車を利用していたほどである。疑獄事件で土光の捜査を担当した検事によれば、初聴取のため早朝土光宅を訪ね、夫人に土光の所在を確認したところ、もう出社したという。こんな朝早くに、といぶかしむと、「今でたところなのでバス停にいるはずです。呼んできましょうか?」とのこと。すぐさまバス停に向かうと果たして土光はバス停でバスを待っていた。この時に検事は彼の無罪を確信したと後に述べている(若林照光『土光敏夫人望力の研究』 PHP研究所

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『無から始めた男たち 20世紀日本の経済人セレクション 』 日本経済新聞社 2003年発行
土光敏夫 (一部抜粋しています)
質素な再建請負人
タービン一筋のエンジニアからモーレツな経営の教祖へ。誠心誠意の仕事ぶりを買われ会社再建に腕をふるった「ラッキーな男」は、財界総理にまで上りつめた。それだけなら、国民の幅広い尊敬は集めなかっただろう。収入のほとんどは私立学校へ寄付。メザシの土光さんに象徴される清廉さ。正論居士の一徹は、ついに行革改革という国家再建に駆り立て命を削らせた。土光敏夫こそ現代の偉人というにふさわしい。
【詳細】
子会社で検討する彼に思わぬ運命が訪れた。石川島重工業と名前の変わった親会社が、戦時標準船の改造工事で大赤字を出し無配転落。「しょっぴかれるように」社長就任。再建人生の始まりだ。山本五十六の「やってみせ、言ってきかせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ」を好む土光の打った手は、徹底した合理化の率先垂範。伝票、領収書をもってこさせ、冗費は大きく減ったが、社長が自らチェックしたという伝説を生んだ。
目標管理の徹底、技術開発、海外の技術導入なども大きいが「言ってきかせて」の方法に社内報『石川島』をつくり、正月、出勤してくる社員一人ひとりに正門前で直接、手渡す土光流が泣かせた。
「日本一のケチ会社」にあげられた同社は、おりからの朝鮮戦争特需で業績が急回復する。
思わぬ落とし穴があった。朝鮮戦争の休戦で造船不況。政府の利子補給をめぐって巨額のリベートが政界に還流した造船疑惑で土光も逮捕、拘留された。不起訴になったが、担当検事は、質素な家から電車通勤する土光をみて「この人は違うなと直感した」という。
会社が息を吹き返したのはブラジルからの発注。船の頑丈さを評価され、石川島ブラジル造船所を設立。日本政府は政情不安を理由に難色を示したが押し切った。同国は老後を過ごす見果てぬ夢の土地になる。
世間をアッといわせたのが播磨造船所との大合併だ。「ゆくゆくは10万トン以上の大型船必至とみていた」が立地条件から設備がもてない。だが陸上部門には強い石川島と、主力の造船が不況で陸上部門進出をねらう播磨。陸と海の結婚はスムーズに運び石川島播磨重工業IHI)が誕生した。
1962年(昭和37年)から3年間、進水量で相生第一工場が世界一になった。真藤恒(のち社長、NTT社長)という天才エンジニアを起用しズングリムックリした低コストの「経済船型」の開発で、受注競争を勝ち抜いたからだ。おかげで「ミスター・ダンピング」とあらぬ誤解も招いた。
東京オリンピックの年、「思い残すこともなく」社長を田口連三に譲った。「真っ先に考えたのはブラジルへの移住」だが、何と減配続きの東京芝浦電気東芝)再建を、尊敬する同社社長の石坂泰三に頼まれる。IHIの3倍もの大会社、病気を治す秘策は、むろん率先垂範。「一般社員は、これまでより3倍頭を使え、重役は10倍働く、私はそれ以上に働く」。かくて第2次高度成長と相まってモーレツ教教祖となる。
事業部への100パーセント権限委譲など機構改革や「チャレンジ・レスポンス経営」。朝7時半から社長室を社員のために開け、トップが工場ひとつ見たことがないのはおかしいと全国行脚し「オヤジ、オヤジ」と歓迎される、これまた土光流活性化。またまた幸運の女神がほほ笑んだ。社長就任後、間もなく「いざなぎ景気」が到来した。石川泰三が言うように「経営者はラッキーな男でなければならない」のだ。
東芝の先行きを確かめ、玉置敬三を後任にリリーフ役を降りた彼は、経済団体連合会第4代会長に推される。
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「政治オンチ」「書生っぽ」という批判はある。しかし、そういう彼を時代は欲した。3期6年で経団連会長を稲山嘉寛に譲り「ようやく楽ができる」と思う間もなく行政官理庁長官の中曽根康弘に引っ張リ出され、臨時行政調査会会長の会長に就任。「増税なき再建計画」を基本理念とした最終答申を出して解散後、臨時行政改革推進審議会の会長もやって、大槻文平に後を託して引退した。
90歳で民間人として初めて勳一等旭日桐花大綬章に輝いたが、すでに衰弱がすすみ、叙勲には車いすで出席した。病床から発表した「私は『個人は質素に、社会は豊かに』という母の教えを忠実に守り、これこそが行革の基本理念であると信じて、微力をささげてまいりました」といいうコメントは、いかにも土光のものであった。

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土光敏夫の言葉
「会社で働くなら知恵を出せ」
「知恵のないものは汗を出せ」
「汗も出ないものは静かに去って行け」