河島博の相関図 - あのひと検索 SPYSEE
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河島博 画像
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加藤仁 『社長の椅子が泣いている』 tokyokid
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河島博 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (一部抜粋しています)
河島博(かわしまひろし、1930年12月5日 - 2007年4月6日)は、日本の実業家。日本楽器製造株式会社(現在のヤマハ株式会社)の第5代社長。
静岡県浜松市生まれ。名古屋経済専門学校(現名古屋大学経済学部)卒業。1951年日本楽器製造入社。1966年取締役、1974年常務、1976年専務を歴任。1977年1月、46歳の若さで日本楽器製造の第5代社長に就任し、過去最高の経常利益を達成する。1980年6月、会長であった川上源一との方針の相違により解任される。1982年、ダイエーの副社長に就任し、V字改革を進める。1987年、リッカーの管財人社長に就任。1989年、ダイエー副会長に就任。1997年、ダイエー副会長を退任。
2007年4月6日、肝不全のため死去。享年76。
本田技研工業の第2代社長であった河島喜好は実兄。
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『新忘れられた日本人』 佐野眞一/著 毎日新聞社 2009年発行
2人のワンマン経営者に仕えた河島博 (一部抜粋しています)
戦後ワンマン経営者の双壁ともいえる男2人に仕え、最後はいずれも世襲経営によって同族企業から追放されてしまったビジネスマン経営者の悲哀について書いてみたい。
この数奇な運命に弄ばれたのは、2007年4月、76歳で他界した河島博である。河島は46歳の若さで日本楽器製造(現・ヤマハ)の社長に就任し、過去最高の経営利益を達成するが、社長就任から3年後の昭和55(1980)年6月、ワンマン経営者の名をほしいままにした会長の川上源一に疎まれて突然、解任された。
河島はそれから2年後、今度は川上源一をしのぐワンマン経営者の中内功から三顧の礼をもってダイエーの副社長に迎えられる、ダイエーはこの当時、連結決算で65億円の赤字を出し、次年度、次々年度も119億円、88億円の赤字決算を出す未曾有の経営危機に見舞われていた。
中内はこの危機を救う経営のプロとして、日本楽器の社長に就任するやオイルショックと円高のダブルパンチで業績が低迷していた同社の経営を立て直すどころか、2期連続で史上最高の経常利益をあげる実績をあげた”再建請負人”の河島をスカウトした。
河島は中内の期待にこたえて、わずか3年で業績を奇跡的に回復させる”V革”をみごとにやりとげた。”V革”とはV字型の革命、すなわち業績がV字型に回復したことから名づけられた。
ところが中内は業績が回復したとみるや、”V革”メンバーを次々と関連会社に飛ばした。そして河島もダイエー本社から、中内が再建支援を表明していたミシンメーカーのリッカーの管財人に追いやられた。
河島の”V革”によってせっかく黒字体質に改善されたダイエーは、中内の現場復帰により、プロ野球団の南海ホークス(現・福岡ソフトバンクホークス)の買収、新神戸オリエンタルホテルの開業など、高度成長時代の再現を夢見るような拡大路線を突っ走っていった。そればかりか、中内は河島がダイエーを離れると、わずか42歳の長男・潤を河島にかわるナンバー2のポストに抜擢した。
河島は古巣の日本楽器で、川上源一から社長の座を追われ、かわりに川上が溺愛する息子の浩に企業を世襲させる悲劇を目の当たりにした。それと同じ悲哀を第2の説く場のダイエーでも味わったのである。
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陰険な権謀術数を駆使してライバルを蹴落としてきた川上と、涙もろい苦労人の中内の本質的な違いは、ノンフィクション作家の加藤仁が河島の人生をたどり、河島の死の前年に出版された『社長の椅子が泣いている』(講談社)を読むと、よくわかる。
私がこの本の書評を頼まれたのは、河島を日本楽器から追放した直後の川上を取材し、ダイエーに入社したあとの河島や、中内ダイエーの勃興から衰退までを長年取材してきたからだろう。私はその種表の冒頭で、こう書いた。
<これは、反対派を大粛清したウガンダの独裁者になぞらえて、”浜松のアミン”と呼ばれた川上と、裸一貫から日本最大の流通帝国を築きあげて”カリスマ”の異名をとった中内に仕えた男の稀有な記録である。強烈な個性をもった2人の下で誠実に働いた河島の足跡を再現した本書は、日本のビジネスマンの”ベスト&ブライテスト”の記録といってよい>
そして、史上最高の業績をあげながらその頂点で川上から首を切られるくだりは何度読んでも腸(はらわた)が煮え返ると記し、こうつづけた。
<にもかかわらず河島はその件に関してマスコミに一切コメントしようとしなかった。この姿勢はいまも変わらず、ダイエーの副社長時代についても、河島は口を閉ざしたままである。こうした振る舞いは、優等生過ぎて面白みの欠けると見る向きもあるだろう。だがそれこそが、誰にも真似できない河島の最上の禀質(ひんしつ)である。
私は本書を読みながら、山本周五郎の『樅の木は残った』を何度も思い出した。伊達藩取り潰しの陰謀に孤立無援で立ち向かう主人公の原田甲斐は、胸の内を誰にも明かさず、ただこう呟く。「いかなる真実も、人の口に伝われば必ず歪められてしまう」>