じじぃの「生命の本質」

動的平衡 福岡伸一 hasen in hatena
http://d.hatena.ne.jp/hasen-fus/20090809/1249822482
生物と無生物のあいだ 福岡伸一 講談社現代新書 2007年出版 (一部抜粋しています)
第9章 動的平衡とはなにか
かくして大発見への準備がととのえられた。普通の餌で育てられた実験ネズミにある一定の短い時間だけ、重窒素で標識されたロイシンというアミノ酸を含む朝が与えられた。波がサンゴの砂を運んできたのだ。このあとネズミは殺され、すべての臓器と組織について、重窒素の行方が調べられた。他方、ネズミの排泄物もすべて回収され、追跡子の収支が算出された。
ここで使用されたネズミは成熟したおとなのネズミだった。これにはわけがある。もし、成長の途上にある若いネズミならば、摂取したアミノ酸は当然、身体の一部に組み込まれるだろう。しかし成熟ネズミならもうそれ以上は大きくなる必要はない。事実、成熟ネズミの体重はほとんど変化がない。ネズミは必要なだけ餌を食べ、その餌は生命維持のためのエネルギー源となって燃やされる。だから摂取した重窒素アミノ酸もすぐに燃やされてしまうだろう。当初、こうシェーンハイマーは予想した。当時の生物学の考え方もそうだった。アミノ酸の燃えかすに含まれる重窒素はすべて尿中に出現するはずである。
しかし実験結果は彼の予想を鮮やかに裏切っていた。
重窒素で標識されたアミノ酸は3日間与えられてた。この間、尿中に排泄されたのは投与量の27.4%、約3分の1弱だった。糞中に排泄されたのはわずかに2.2%だから、ほとんどのアミノ酸はネズミの体内のどこかにとどまったことになる。
では、残りの重窒素は一体どこにいったのか。答えはタンパク質だった。与えられた重窒素のうちなんと半分以上の56.5%が、身体を構成するタンパク質の中に取り込まれていた。しかも、その取り込み場所を探ると、身体のありとあらゆる部位に分散されていたのである。特に、取り込み率が高いのは腸壁、腎臓、膵臓脾臓、肝臓などの臓器、血清(血液中のタンパク質)であった。当時、最も消耗しやすいと考えられていた筋肉タンパク質への重窒素取り込み率ははるかに低いことがわかった。
実験期間中、ネズミの体重は変化していない。これは一体どのようなことを意味するのだろうか。
タンパク質はアミノ酸が数珠玉のように連結してできた生体高分子であり、酵素やモルモンとして働き、あるいは細胞の運動や形を支える最も重要な物質である。そしてひとつのタンパク質を合成するためには、いちいち1からアミノ酸をつなぎ合わせなければならない。つまり重窒素を含むアミノ酸が外界からネズミの体内の取り込まれて、それがタンパク質の中に組み込まれるということは、もともと存在していたタンパク質の一部分に重窒素アミノ酸が挿入される−−ちょうどネックレスの一箇所を開いてそこに新しい玉をひとつ挟み込むように−−、 というふうにはならない。そうではなく、重窒素アミノ酸を与えると瞬く間にそれを含むタンパク質がネズミのあらゆる組織に現れるということは、恐ろしく速い速度で、多数のアミノ酸が1から紡ぎ合わされて新たにタンパク質が組み上げられているということである。
さらに重要なことがある。ネズミの体重が増加していないということは、あらたに作りだされたタンパク質と同じ量のタンパク質が恐ろしく速い速度で、バラバラのアミノ酸に分解され、そしって体外に捨てられているということを意味する。
つまり、ネズミを構成していた身体のタンパク質は、たった3日間のうち、食事由来のアミノ酸の約半数によってがらりと置き換えられたということである。もし重窒素アミノ酸を3日間与えたあと、今度は、普通のアミノ酸からなる餌でネズミを飼い続ければ、一度は捨て去られてゆく様子が観察されることになる。つまり、砂の城はその形を変えず、その中をサンゴの砂粒が通り過ぎていくのとまったく同じことがここでは行われているのだ。

                            • -

方丈記 鴨長明 (一部抜粋しています)
行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。
よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。

                            • -

フリッチョフ・カプラ 出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
フリッチョフ・カプラ(1939年2月生まれ)は、オーストリア出身のアメリカの物理学者である。現代物理学と東洋思想との相同性、相補性を指摘した1975年の『タオ自然学』が世界的なベストセラーとなり、その名が広く知られるようになった。
【エコ・リテラシー
エコ・リテラシーとは、自然の原理を理解し、それに則って生きるための教養。この自然の原理は、「ネットワーク」、「入れ子システム」、「サイクル」、「フロー」、「発展」、「動的平衡」の6つの概念にまとめられている。近年は、これらの概念を社会学的に展開しているマニュエル・カステルやジョン・アーリらとの交流もみられる

                            • -

『プライムニュース』「生命の本質とは何か? 福岡伸一が核心に迫る」 8月14日 BSフジ
【キャスター】秋元優里、反町理、小林多一郎解説委員 【ゲスト】青山学院大学理工学部教授 福岡伸一東京大学先端科学技術センター客員研究員 島田裕巳
http://www.bsfuji.tv/primenews/movie/index.html?d090814_0
どうでもいい、じじぃの日記。
8月14日、BSフジ プライムニュース「生命の本質とは何か? 福岡伸一が核心に迫る」を観た。
福岡さんの本に『生物と無生物のあいだ』がある。すっかり忘れていたが、本の中に「第9章 動的平衡とはなにか」があった。本の内容をちゃんと理解していなかったということもあるが、今日の対談は面白かった。話していた内容の一部を書いてみた。
秋元 「動的平衡」とは何か。
福岡 今から70年ほど前、アメリカにルドルフ・シェーンハイマーという分子生物学者が食べた後で身体の中でどうなるのか調べた。実験動物としてネズミを用意し、食べたものがどこに行っているか分からなくなるので食べ物の原子に緑色の色(アイソトープ)を付けた。食べた後、緑色がネズミの身体の一部に溶け込んだ。体重は変化なし。細胞は分解しなくても中身が変わっている。分子のレベルで1年で全部入れ替わっている。物質が流転しているが「私」は「私」であり続けている。私自身、自殺してしまったがルドルフ・シェーンハイマーを20世紀の最大の科学者だと思っている。
小林 福岡さんの本の中の鴨長明作 『方丈記』は無常感を歌っているが『動的平衡』はまさに、これに当たる。
福岡 昔の人が言っていることと、結果的に同じことを言っている。
島田 神が作ったものでも、この『方丈記』のように変化している。水で洗い流す。お盆のとき祭壇のキュウリやナスも単なる置物ではない。
秋元 福岡さんの本の「人間とは考える管(くだ)である」とは何か
福岡 パスカルの「人間とは考える葦(あし)である」をもじったもので、お腹の中は身体の外(そと)なんです。口、食道、胃腸、小腸、大腸、肛門とチクワの穴のようなもので食物を食べるということは消化吸収されて血液の中に入って初めて身に付く。食べやすくするために消化をするわけではなくて、自分の情報にするために一旦、消化する。A、B、Cという分子レベルのアミノ酸になる。村上春樹のあいうえおも単なるあいうえおに分解して取り込む。分解しなかった場合はアレルギーになる。
反町 アミノ酸が取れれば、口からでなくてもいいのか。
福岡 静脈注射でも生存可能だが、口から取り込むことによって準備反応になる。
小林 準備反応とは何のためにあるのか。
福岡 身体に合うように準備反応する。ガソリンを身体に入れればいいというわけではない。入れる速度が大切。
反町 宗教的にはどう考えるのか。
島田 ヨガとか気は人間を考える管のように捕えるのは共通している。解脱とか、悟りを開くという考えだ。カプラという物理学者も同じようなことを言っている。
秋元 人間の記憶とは何か。
福岡 私たちの記憶というのはビデオテープではない。このレベルでの記憶ではない。記憶とは形なんです。(竹ひものような立体的な分子の構造体を取り出して)ちょっとこういうものを用意してきました。シナプスで結びつけられているのが回路として働く。このような竹ひもに電気を流すということが、何かを思い出すということになる。昔の子供の頃の記憶を思い出すことがあるが、記憶が強烈だから残っているのではなくて、繰り返し、繰り返しで保持されてきたものなんです。その都度、ペットのようなものとして蘇ってきている。
小林 「我ゆえに我あり」。竹ひもが自分であるということになるのか。
福岡 竹ひもであり、回路であるが、しかし実体がない。回路も変わっているかも知れない。
島田 宗教が竹ひもと言っていい。
秋元 生命は時計仕掛けではないのか
福岡 がんのメカニズムとか、糖尿病のメカニズムとかいうが、私たちの身体は単なるパーツ(部品)ではない。他のパーツと関係しているので生命現象にパーツはない。
反町 臓器移植はどういう位置づけになるのか。
福岡 理念的に言えば臓器移植は不可能性にチャレンジしているようなものだ。肝臓とか、腎臓とか、心臓をどこかのパーツのようなアナロジーとして理解しているが心臓がどこかの町工場で作られているというものではない。心臓はポンプのような機能を持っているし、肺はふいごのような機能を持っている。だが心臓は1つの細胞が2分裂、3分裂いて徐々に分化していった総体の中のある1領域を心臓と名付けているだけで、実はどこからどこまで心臓なのか明確には分からない。そして心臓が機能を持つためには身体のすべてのものがあって初めて機能する。そして心臓には無数の血管があり、たくさんの神経が出入りしている。もし移植するには全部切断することになる。村上春樹の小説の一部を切り取って、別のところに貼りつけるようなものだ。臓器移植は免疫で抑えているが、その人に対して本当に延命に役立っているのか分からない。
島田 臓器移植については宗教界は反対が多い。神が決めることとして考えることが多いが、自己犠牲という考え方もある。
小林 「ヒトゲノム計画」で人の細胞は2万数千個のパーツから組み立てられていることが分かった。生命はパーツでないというのであれば何が足りないのか。
福岡 プラスαは何か。昔だったら目に見えない何かがいると考えただろうが、確かにプラスαはある。情報のやり取りとか、物質の有り様とか、その流れが大切である。
福岡 そのステージ、そのステージでどのパーツが必要か分かっているのか。
福岡 人間の場合、精子卵子で受精卵が出来たとき、新しい生命の始まりである。効果が生命である。スイッチがオンになるということがすべて分かっているわけではない。30数億年まで遡らないとすべては分からない。
反町 万能細胞は作れるか。
福岡 自分の細胞から作られるのでゼロから作られているわけではない。万能細胞から1個の心臓を作ることは出来ない。形を作るために身体のすべての細胞がないと出来ない。
島田 魂が重要。例えば針供養。これは物質であるが、針供養をするのに魂を入れてやっている。
反町 今の話は科学でも通じるところはあるのか。
福岡 死んでいる、生きているというのは物質としては同じであるが、魂を入れるということを別の言葉で説明をしようとしているわけです。
秋元 死というのはどういうことでしょうか。
福岡 生物学的には脳死は死ではない。心臓の停止、呼吸の有無、瞳孔の停止、その段階でもまだ生きているわけです。まだ30兆個の細胞が生きているので数十時間経ってからでないと死にはならない。受精卵が生の始まりとするのと、しばらくして脳が出来て脳波が始まるまでの26週〜27週経ってからを生の始まりとする考えかたもある。死についても一般的な死の判断を生物学でも妥当とする考えもある。
島田 「動的平衡」がなくても、生が続いているという考えがある。高野山の弘法太子はまだ生きている。天理教でもそう。イエス・キリストは復活したので死んでいない。
福岡 個体の死ということはある。身体を作っていたものがばらばらになり、ミミズの一部になるかもしれない。循環している。生物多様性が大事だということは循環性あるからだ。
小林 (ほら貝を出して)この貝は渦巻き模様になっている。
秋元 (アイルランド ニューグレンジの石に渦巻きがある写真のパネルを出して)約5千年前の石に渦巻き模様がある。
福岡 流転しながらぐるぐる回っている自然観ですね。
メールからの質問 細胞が入れ替わっているのに、なぜがん細胞はそのまま増殖するのか。
福岡 自分を見失っているから。自分を思い出させる。私はもともと肝臓にあった正常な細胞だと思い出させないといけないのかもしれない。
島田 万能細胞もがん化することがある。
提言。
福岡氏の提言 「よいこともわるいことも流れていきます。分子のレベルでは」 私は昨日の私ではない。それは1つの希望である。
島田氏の提言 「再生への希望をもつ!」 壁があってもそれを乗り越えるために宗教がある。