じじぃの「人の死にざま_30_アンドリュー・カーネギー」

アンドリュー・カーネギー - あのひと検索 SPYSEE
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The Life of Andrew Carnegie 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=-_GQuhOK_lc
アンドリュー・カーネギー ウィキペディアWikipedia)より
アンドリュー・カーネギー(Andrew Carnegie, 1835年11月25日-1919年8月11日)はスコットランドで生まれたアメリカの実業家。幼いころにアメリカに移り住んだ。カーネギー鉄鋼会社を創業し、成功を収めた(会社は売却され、合併してUSスチール社となる)。彼は事業で成功を収めたのち、教育や文化の分野へ多くの寄付を行ったことから、今日でも慈善家としてよく知られている。またナポレオン・ヒル・プログラムの創始者ナポレオン・ヒル博士に自身の成功哲学にもとづく成功プログラム開発を発注したことでも有名である。
【慈善家としての活動】
彼は著書『富の福音』のなかで、「裕福な人はその富を浪費するよりも、社会がより豊かになるために使うべきだ。」と述べている。また、社会ダーウィン主義の実践者でもあり、不平等な状態を是とした。無条件に貧しいものへ与えることを有害とし、努力する者を支援するために富が使用されるよう寄付する者が責任を持つべきだとしている。「富を持って死ぬことは不名誉である」と主張し、死の際にやむなく行う遺贈ではなく、生存中に活用先への責任を持ちながら行ったスタンフォード大学の創設者スタンフォードのような例を模範として実践した。1902年1月28日にワシントンD.C.で1億ドル以上を投じてカーネギー財団を設立した。また、オランダに平和宮殿を設立し、後に国際司法裁判所として使用されている。引退前にも1891年に設立したニューヨークのカーネギー・ホールや1900年に設立したカーネギー技術学校(後のカーネギーメロン大学)などの慈善活動を行っていた。カーネギー・ホールは1925年に彼の未亡人が売却したが現在もそのままの名前が使用されている。

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
カーネギー 84歳で死亡
スコットランドからの貧しい移民少年としてアメリカに渡り、14歳で電報配達夫として生活しはじめたカーネギーは、やがて投資家から汽車・鉄橋などを製造する経営者となり、ついにはアメリカの鉄鋼の半分を生産する大鉄鋼主となったが、1901年、66歳のとき会社を鉄道王モルガンに譲ることを余儀なくされ、産業界から引退した。
事業者としてはモルガンに負けたわけだが、その後の余生の事業によって彼はモルガンよりも名声を残す。
すなわち彼は、「人間は富を墓の下まで持ってゆけない。金を持ったまま死ぬことは馬鹿げている」といって、巨額の私財を全力をあげて公共事業に投ずることに余生を捧げた。有名なカーネギーホールカーネギー工科大学はその一例である。
1919年8月11日、彼は肺炎でこの世を去ったが、そのときカーネギー家の金庫はからに近かったといわれる。

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カーネギーの言葉
「人間は富を墓の下まで持ってゆけない。金を持ったまま死ぬことは馬鹿げている」は名言です。