じじぃの「人の死にざま_27_福沢・諭吉」

福沢諭吉 - あのひと検索 SPYSEE
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幕末青春グラフィティ 福沢諭吉 1/15 動画 YouTube
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プロジェクトJAPAN 「一身独立して一国独立す 福沢 諭吉」 動画 NHK
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第1回 日本はどこへゆくのか 〜福澤諭吉中江兆民〜 | 日本人は何を考えてきたのか 2012年1月8日 NHK Eテレ
【出演】知花くらら(モデル)、坂野潤治東京大学名誉教授)、松永昌三(岡山大学名誉教授)、郄橋美鈴アナウンサー
黒船来航によって開国させられた日本。文明世界を初めて見た日本人は何を考えたのか。明治日本を代表する2人の思想家・福澤諭吉中江兆民の欧米での体験を探ろうとモデルの知花くららさんがアメリカ、フランスを訪ねる。
幕末、米欧を訪れた福澤はイギリス流の2大政党による議院内閣制に注目。一方、岩倉遣欧使節団でフランスに留学した中江はルソーに影響を受け、直接民主制を民主主義のモデルと考えた。しかし、政府は伊藤博文井上毅らを中心にプロイセン等の憲法をもとに明治憲法を制定。天皇と政府に強い権限を与えた。こうした中で、中江は上から与えられた「恩賜的民権」を下からかちとった「恢復的民権」へ育てていくことを主著「三酔人経綸問答」で訴える。また、福澤は明治憲法のもと官民が調和した政治をめざしていく。
日本の民主主義の様々な可能性が論議されていた明治10年代、福澤と中江はどのような未来構想を思い描いていたのか。そして、欧米列強による植民地化が進むアジアで日本の行くべき道どのように示していたのか。アメリカ、フランス、韓国、海外の研究者の目から2人の思想家の構想を見つめ直す。
http://www.nhk.or.jp/nihonjin/schedule/0108.html
福澤諭吉 ウィキペディアWikipedia)より
福澤諭吉は、日本の武士(中津藩士のち旗本)、蘭学者、著述家、啓蒙思想家、教育者。慶應義塾の創設者であり、専修学校(後の専修大学)、商法講習所(後の一橋大学)、伝染病研究所の創設にも尽力した。他に東京学士会院(現在の日本学士院)初代会長を務めた。そうした業績を元に明治六大教育家として列される。
諱は範(はん)。字は子囲(しい)。揮毫の落款印は「明治卅弐季後之福翁」。もともと苗字は「ふくさわ」と発音していたが、明治維新以後は「ふくざわ」と発音するようになった。 現代では「福沢諭吉」と記載される事が一般的である。 なお「中村諭吉」と名乗っていた時期がある。
脱亜論 ウィキペディアWikipedia)より
『脱亜論』は、新聞『時事新報』紙上に1885年(明治18年)3月16日に掲載された無署名の社説を指す。福澤諭吉が執筆したとされているが、原文は無署名の社説である。1933年(昭和8年)に石河幹明編『続福澤全集』第2巻(岩波書店)に収録されたため、福澤が執筆した社説と考えられるようになった。
1950年(昭和25年)以前に「脱亜論」に関するコメントは見つかっていない。見つかっている最初のコメントは翌1951年(昭和26年)年に遠山茂樹が発表した「日清戦争福沢諭吉」(福沢研究会編『福沢研究』第6号)である。「脱亜論」が一般に有名になったのはさらに遅れて1960年代である。
【脱亜論の評価】
丸山眞男は、福沢が実践的にも早くからコミットしていた金玉均ら朝鮮開化派による甲申事変が三日天下に終わったことの失望感と、日本・清国政府・李氏政権がそれぞれの立場から甲申事変の結果を傍観・利用したことに対する焦立ちから、「「脱亜論」の社説はこうした福沢の挫折感と憤激の爆発として読まれねばならない」と説明する。
また、丸山は、福澤が「脱亜論」を執筆したと仮定しても、福澤が「脱亜」という単語を使用したのは「脱亜論」1編のみであると指摘した。それゆえ、「脱亜」という単語は福澤においてはキーワードでないと述べた。さらに、「入欧」という単語に至っては、福澤諭吉は(署名著作と無署名論説の全てにおいて)一度も使用したことがなく、したがって「脱亜入欧」という成句も福澤が一度も使用していないことを指摘した。
さらに、丸山は「脱亜入欧」という成句が福澤と結びつけて考えられるようになるのはたかだか1950年代以降のことであり、戦前の福澤研究や石河幹明の『福澤諭吉伝』においても「脱亜」とか「脱亜入欧」とかいう語句が登場することはなく、社説「脱亜論」に関してもほとんど引用されたことはないと指摘した。
福沢諭吉書簡集』の編集委員であった西川俊作は、「この短い(およそ二、二〇〇字の)論説一篇をもって、彼を脱亜入欧主義の「はしり」であると見るのは短絡であり、当時の東アジア三国のあいだの相互関連を適切に理解していない見方である」と指摘する。
坂本多加雄は、甲申政変の失敗と清国の強大な軍事力を背景にして、「「脱亜論」は、日本が西洋諸国と同等の優位の立場でアジア諸国に臨むような状況を前提にしているのではなく、むしろ逆に、朝鮮の一件に対する深い失望と、強大な清国への憂慮の念に駆られて記された文章ではないか」と説明する。
坂野潤治は、福澤の状況的発言は当時の国際状況、国内経済などの状況的認識と対応していることを強調し、甲申事変が失敗したことにより状況的認識が変化して「脱亜論」が書かれたと説明して、「これを要するに、明治十四年初頭から十七年の末までの福沢の東アジア政策論には、朝鮮国内における改革派の援助という点での一貫性があり、「脱亜論」はこの福沢の主張の敗北宣言にすぎないのである。福沢の「脱亜論」をもって彼のアジア蔑視観の開始であるとか、彼のアジア侵略論の開始であるとかいう評論ほど見当違いなものはない」と解説する。

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
福沢諭吉 (1835-1901) 66歳で死亡
身長173センチ、体重67.5キロという、当時としては並以上に立派な体格を持っていた福沢諭吉は、晩年になっても毎日6キロを歩くのを常とした。万歩運動の開祖である。股引に尻端折り、鳥打帽に竹の杖をつき、わらじをはいたこの散歩に、毎朝慶応の学生たちが群をなしてお供をした。
それほど健康に留意した福沢諭吉であったが、64歳の明治31年9月21日、軽い脳溢血を起し、年末に至って、一応回復したが、その後もの忘れがひどくなった。
34年1月25日朝、知人の木村介舟が訪問した。木村はかって摂津守と称し、幕末咸臨丸の提督として、勝安房、福沢らをひきいてアメリカへ渡った人である。訪れた木村と福沢は「瘠我慢の説」を話題にした。それはこの1月1日から3日にわたって「時事新報」に福沢が公表した、維新後における勝海舟榎本武揚の進退を弾劾した文章であった。
福沢の段論動作は活発で何の異常もなく、また「このごろは魚肉は一切やめ、粥に野菜、それに毎日つとめて牛乳2合のんでいます」など語った。
客が去ったあと、その日も彼は平常のように三田の邸内を散歩し、午後はまた広尾の別荘まで徒歩で往復した。しかし夜8時ごろ便所にはいったところ脳溢血が再発し左下肢が麻痺し、言語の渋滞を来たした。
そして、9日後の2月3日午後10時50分に死んだ。
彼はかねがね「自分が死んだとき湯灌などするに及ばぬ。衣服もとりかえるに及ばぬ。そのまま棺に納めてもらいたい」といっていたので、その通りにした。また「死顔を人に見せることはいやだ」といっていたので、その死顔を見たのは近親の者、4、5人だけであった。
2月8日の麻布善福寺の葬儀には、会葬者1万5000人に及んだ。
屍体は、そこにキビの葉をしき、内部に鋼板を張ったケヤキの棺に納められて、そのまま埋葬されたが、76年後の昭和52年発掘されたとき、屍ろう化していてなお生前の面影を保っていることが判明した。しかし。「死顔を見せるな」といったくらいの諭吉だから、この発掘はさぞ不本意であったろう。
−−功利主義者という評もあった福沢諭吉だが、晩年こんな言葉も残している。
「・・・・宇宙無邊の考を以て独り自から観ずれば。日月も小なり地球も微なり。況(ま)して人間の如き。無智無力見る影もなき蛆(うじ)虫同様の小動物にして、石火電光の瞬間、偶然この世に呼吸眠食し、喜怒哀樂の一夢中、忽ち消えて痕なきのみ」(『福翁百話』)
また彼は、日清戦争のとき1万円を献金したので、政府から勲章の話があるときいて。「そんなものはごめんこうむる。もし勲章をくれるなら、維新以来政府の師匠格であったという働きに勲章をもらいたい」と、一笑した。
そして政治家や軍人が争って勲章をもらう中に、彼は無勲のまま死んだ。
83年後の昭和59年、彼の肖像は、一万円札になったが、彼が知ったら立腹するだろう。千円札の漱石に至っては、いうもおろかなりである。
最もこういうことをきらいそうな人間を、そろいもそろってよく紙幣の肖像画に使ったものだが、人間死ねば生きているやつに何をされても無抵抗である。

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【次代への名言】2月25日・福沢諭吉 2009.2.25 MSN産経ニュース
「これはなんのことはない、牢屋にはいって毎日毎夜大地震にあっていると思えばいいじゃないか」福沢諭吉
当時25歳だった福沢諭吉は晩冬から早春にかけての太平洋の荒波をこう表現している。福沢や艦長の勝海舟、通訳の中浜(ジョン)万次郎ら107人を乗せた咸臨丸(かんりんまる)は1860年のきょう、米西海岸のサンフランシスコに到着した(咸臨丸の日誌や日本暦では翌日付となるが、小欄では1日早い米国暦=3月17日=に対応した旧暦を採用している)。咸臨丸は幕府がオランダに注文した蒸気軍艦で船価は10万ドル。最初の名は「ヤッパン(日本丸)」といった。
『万延(まんえん)元年遣米使節史料集成』によると、往路はブルック海軍大尉をはじめ、乗船していた11人の米国人に「ときには船の操作いっさいをほとんど委ねぎりであった」らしいという。ただ、帰りの航海は日本人のみといってよく、「海軍」が誕生したのがわずか5年前だったことも考え合わせると、後年、福沢や勝が誇ったように、やはり快挙だった。
サンフランシスコ市民はこの最初の日本使節を盛大に迎え、地元紙も「船影見ゆ」から上陸まで大いに報じた。そのなかに「彼らの容姿はわれわれがこれまでに目にしたどの中国人よりはるかに知的である」という一文がある。少し気になるが、「ほめことば」としておこう。
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/090225/acd0902250334000-n1.htm
福沢諭吉『学問のすゝめ』 (一部抜粋しています)
 天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと云へり されば天より人を生ずるには、萬人(ばんじん)は萬人皆同じ位にして、生れながら貴賎(きせん)上下の差別なく、萬物(ばんぶつ=宇宙に存在するすべてのもの。ありとあらゆるもの)の靈(れい)たる身と心との働を以て天地の間にあるよろづ(いろいろ)の物を資(と)り(取る)、以て衣食住の用を達し、自由自在、互に人の妨(さまたげ)をなさずして各安樂に此世(このよ)を渡らしめ給ふの趣意(しゅい=文章や話などで、伝えようとしている考え。主旨)なり。
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/fukuzawa.htm